前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)
前回までの記事はこちら↓
今回は、「松形知事の決断」という内容です。
(読みやすいように適宜改行を入れています)
以前の記事でも書きましたが、学校設置の決断がなされた時の様子がドラマチックに描かれています。この決断がなかったら自分の人生もまた大きく違っただろうなと思うと感慨深いものがあります。
<松形知事の決断>
折角意気込んで作成した予算要求書は、財政課長査定で没となる。知事に説明だけでもさせて欲しいと強引にねじ込んで、説明することだけは認められた。
県教委の予算説明がすべて終了したところで、番外の形で説明に移ったのだが途中から予算要求に切替えた。当然、財政課長からストップがかかったけれども説明を続けた。
同席している県幹部は、当初予算額は勿論、教職員定数法に県立中学校の規程がないことから、全員高校共有を県単独事業で当てることにしたための人件費及び施設設備を含む後年度負担額、遠隔地で全寮制であることから応募者に自信が持てないなどの理由で賛成してもらえる雰囲気ではない。
半ば諦め、半ば投げ遣りの気持で「県政の柱の一つである『人づくり』は、学校教育が基盤である。二十一世紀に国際社会で活躍する人間は、豊かな人間性と確固たる人生観・人生哲学を持った者でなければならない。そういう人間を育てたい」などと喋っているうちに座が白けてしまった。何の反応も返ってこないので完全に諦めた。
沈黙が続いた後、知事から「その学校の生徒にどんな人間像を期待していますか」と質問があった。
すでに言いたいことは言い尽くしたつもりでいたから、これ以上何も言うことはない。仕方がないから「宮崎県は神代の昔、日向(ひむか)の国と言った」と切り出したら、幹部の何人かが閉じていた目をぱっと開いて私を見た。
構わず続けることにして「後の神武天皇は、この地から東征されて、わが国の基を築かれたと言う言い伝えがある。幼少の頃から神武天皇を育んだのは我々の祖先であり、その子孫が今の子ども達である。そこで二十一世紀中に、この学校の卒業生の中から、一人で良いから第二の神武天皇を世に送り出したい」とやってしまった。
並居る幹部の諸氏は無表情のままであったが、県教委の職員は、これで一巻の終りと思ったという。私もつまらぬことを言い過ぎたと後悔した。これで夢は消えたと観念した。
ところが沈思黙考されていた知事が、いきなり「児玉さん、やろうよ!」と決断を下された。
今回は以上です。
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