前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)
前回までの記事はこちら↓
今回は、「学校設置にあたって」という内容です。
(読みやすいように適宜改行を入れています)
学校設置の決断の後に、具体的にどのように設立準備が行なわれて来たかが述べられています。淡々と語られていますが、行間からは前例のない中で新しい学校づくりに向かう中での困難やそれを乗り越える情熱が見えてきます。
<学校設置にあたって>
学校設置が決定した平成三年(一九九一)三月末教育長を退職したが、「フォレストピア学びの森学校設置検討委員会」が庁内に設けられ、学校建設推進専門員の肩書で前期委員会の会長を命ぜられ、具体的な計画に当たることになった。後任の高山教育長は、次長時代からこの学校建設の経緯を十分理解しておられたので、事は順調に運ぶことができた。
翌平成四年に有識者、PTA関係者を中心にした「フォレストピア学びの森建設構想協議会」に切替えて、学校の基本理念、学校・寮の運営、入学選抜方法、施設・設備等の協議が行われた。その結果、感性と感動と共に野性味豊かな人間の育成、個性を重視した選択科目の導入と指導者の確保、地元中学校との整合性、男女比の問題、寮におけるハウスマスター制の導入の方針が策定された。
その間、県教委では、学校に対するアンケート調査を行い、保護者の期待を裏付ける結果と応募者確保の十分な手ごたえを得ていた。協議の過程では、種々の問題提起があったが、中でも小卒直後の女子を母親の手元から話すことへの不安がかなり強調された。
しかし、現代の女子は男子より自立している者が多く、順応性も高いこと、思春期の心身の変化については、養護教諭、寮母、ハウスマスター(教諭夫婦が専任で寮に常駐)によって、最大限の対応をすることで結着した。今一つは入学定員に占める男女比の問題であったが、議会の意見等を勘案して男子七対女子三に設定された。協議と並行して校地の造成工事に着工した。
(用地買収については、五ヶ瀬町役場の献身的な協力を得たことを付記しておく)
平成五年四月一日付で「新設県立学校開設準備委員会」が発足、永友忠昭委員長、岩切正憲、木許禧憲、靍田歳明委員の四氏が任命された。
この委員会では、校事、寮における生活時間割を規定、校則を設けず生徒の自立した生活態度を育てること、成績順位を表示せず、生徒の進路目標に対する到達度で評価すること、生涯の指針になることを願って、志・忠・恕・妙・気の五訓を設定、選抜科目、体験学習を主体とした教科・科目の検討、地域の古老・名人による技能の習得、地域家庭へのホームステイによる交流等々きめ細やかな詰めを行う。
何しろ前例のない理想を追っているわけだから、時に行き詰まることが多かったが、そんな時は安酒を汲みながら侃々諤々やったものである。結果的には、その中から意外性のある名案が生まれた。
平成五年十二月十六日「教育関係の公の施設に関する条例の一部を改正する条例」が議決され、ここに宮崎県立五ヶ瀬中学校・高等学校の設置が決定された。平成六年一月一日には初代校長永友、教頭に岩切(高)、木許(中)、事務長靍田の四氏が発令され入学選抜検査、教職員人事案、開校準備等に追われる毎日が続いた。そして、平成六年(一九九四)四月一日開校、同十一日第一回入学式が挙行された。
今回は以上です。
前回までの記事はこちら↓
今回は、「学校設置にあたって」という内容です。
(読みやすいように適宜改行を入れています)
学校設置の決断の後に、具体的にどのように設立準備が行なわれて来たかが述べられています。淡々と語られていますが、行間からは前例のない中で新しい学校づくりに向かう中での困難やそれを乗り越える情熱が見えてきます。
<学校設置にあたって>
学校設置が決定した平成三年(一九九一)三月末教育長を退職したが、「フォレストピア学びの森学校設置検討委員会」が庁内に設けられ、学校建設推進専門員の肩書で前期委員会の会長を命ぜられ、具体的な計画に当たることになった。後任の高山教育長は、次長時代からこの学校建設の経緯を十分理解しておられたので、事は順調に運ぶことができた。
翌平成四年に有識者、PTA関係者を中心にした「フォレストピア学びの森建設構想協議会」に切替えて、学校の基本理念、学校・寮の運営、入学選抜方法、施設・設備等の協議が行われた。その結果、感性と感動と共に野性味豊かな人間の育成、個性を重視した選択科目の導入と指導者の確保、地元中学校との整合性、男女比の問題、寮におけるハウスマスター制の導入の方針が策定された。
その間、県教委では、学校に対するアンケート調査を行い、保護者の期待を裏付ける結果と応募者確保の十分な手ごたえを得ていた。協議の過程では、種々の問題提起があったが、中でも小卒直後の女子を母親の手元から話すことへの不安がかなり強調された。
しかし、現代の女子は男子より自立している者が多く、順応性も高いこと、思春期の心身の変化については、養護教諭、寮母、ハウスマスター(教諭夫婦が専任で寮に常駐)によって、最大限の対応をすることで結着した。今一つは入学定員に占める男女比の問題であったが、議会の意見等を勘案して男子七対女子三に設定された。協議と並行して校地の造成工事に着工した。
(用地買収については、五ヶ瀬町役場の献身的な協力を得たことを付記しておく)
平成五年四月一日付で「新設県立学校開設準備委員会」が発足、永友忠昭委員長、岩切正憲、木許禧憲、靍田歳明委員の四氏が任命された。
この委員会では、校事、寮における生活時間割を規定、校則を設けず生徒の自立した生活態度を育てること、成績順位を表示せず、生徒の進路目標に対する到達度で評価すること、生涯の指針になることを願って、志・忠・恕・妙・気の五訓を設定、選抜科目、体験学習を主体とした教科・科目の検討、地域の古老・名人による技能の習得、地域家庭へのホームステイによる交流等々きめ細やかな詰めを行う。
何しろ前例のない理想を追っているわけだから、時に行き詰まることが多かったが、そんな時は安酒を汲みながら侃々諤々やったものである。結果的には、その中から意外性のある名案が生まれた。
平成五年十二月十六日「教育関係の公の施設に関する条例の一部を改正する条例」が議決され、ここに宮崎県立五ヶ瀬中学校・高等学校の設置が決定された。平成六年一月一日には初代校長永友、教頭に岩切(高)、木許(中)、事務長靍田の四氏が発令され入学選抜検査、教職員人事案、開校準備等に追われる毎日が続いた。そして、平成六年(一九九四)四月一日開校、同十一日第一回入学式が挙行された。
今回は以上です。
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