前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)
前回の記事はこちら↓
今回は、「五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯」という内容です。現行法規の壁にぶつかる中、学校設置に向けてどのように進めていったかといった舞台裏の話が描かれています。
(読みやすいように適宜改行を入れています)
<五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯>
以上述べてきた考えを実現しようと模索し始めたのは、学校教育課長時代(昭五八)である。県立中学校を新設して既存の高校に付属させる方法や過疎地の廃校を活用して、中学二年から五ヶ年間の全寮制の学校を構想したり、多角的に検討したのだが、肝心なところで現行法規の壁に阻まれて行き詰まっていた。
ところが、一九八五年(昭六〇)に臨時教育審議会が発足し、その審議の過程で六年生中等学校の構想があるという情報を得た。ただ問題は、肝心の普通科が入っていないということであった。この時期、定例の全国教育長協議会教育課程部会に代理出席したのを幸い、六年制中等学校構想の中に、普通科を入れて欲しいと強く要望した。
その後発表された第一次答申には、六年制中等学校で予想される教育の類型として、直接普通科を単独で表示した者はなかったが、提示された五類型の中に「普通教育と専門教育の二元的考え方を柔軟にする」という項目が入っていた。
元来受験教育に偏重した普通科を考えていたわけではなく、知・徳・体バランスのとれた有能な人材の育成を考えていたのであるから、この文言は思惑を裏切るものではなかった。後は可及的速やかに、これが法制化されることを念願した。
さて、問題は、新しい考え方に基づく学校を設置した場合の、社会一般の受けとめ方である。世はまさに受験に対する対処の仕方で、学校を評価する風潮下にある。従って、新設校を社会に認識させるには、相当の努力が必要であることを十分承知しているだけに、設置後の学校経営には、正直言って多少の不安を抱いていた。
しかし、六年間継続して教育できる学校では、中学時代に受験に追い立てられる学校の生徒達より、人間的には勿論、知的学力の習得においても、優れた教育効果を発揮できると考えていた。
一九八八年(昭六三)に教育長に就任して、文科系の能力に優れた生徒のために、これもかねてから検討していた現文科情報科の設置と並行して、中・高一貫教育学校について、具体化の検討を学校教育課に指示した。時の宮路課長、笹山高校教育係長を中心に精力的な作業に入った。
丁度この時期、宮崎県では、県北西部山間地帯(五ヶ町村)に「人間性回復の森」として山村の有効利用を理念とするフォレストピア構想が策定された。この構想の中に「学びの森」ゾーンが位置づけられ、林務部から全国に向けた少年自然の家を想定した施設の相談を受けた。
しかし、既設の類似施設との関係で、有効利用の目途が立たないとしてこれを断った。最終的には「学びの森」の施設については、県教委に一任するということになった。そこでこのゾーンの中核施設として、中・高一貫教育の学校を設置し、森林とその空間を媒体とした教育を展開したい旨回答した。時の四位林務部長・谷フォレストピア対策監(後の林業総合センター所長)の了承を得ると共に、林務部として協力することを約束していただいた。
いよいよ構想の実現に向けて文部省との予備折衝に入ったが、時期が悪かった。その頃大都市を中心に、中・高一貫教育を先取りした私立学校が、小学校に深刻な受験競争をもたらし、これが大きな社会問題になっていたのである。
当方としては、学力検査は行わず校長の推せん調書、実技、面接等で選考することを説明し、従って小学校に受験競争を引き起こす心配はないこと、更には、六年間の修行機関に、個性の発見と創造性を育てる教育の内容を提示して説明するのだが、頑なに容認できないという態度であった。
ここまでくると県単独事業でやる以外にないと肚をくくらざるを得なかった。ところが、世の中どこに救いの神がいるかわからない。当時フォレストピア構想の理論背景を構築し研究していたのは、東京に事務所を置く「森とむらの会」である。
会長は高木文雄氏(元大蔵事務次官、後の国鉄総裁)であり、松形知事が顧問をされていた。その会合で、フォレストピア圏域に設置を考えている中・高一貫教育を目指す学びの森学校(仮称)の構想について話す機会があった。その中で文部省との折衝が難航していることも率直に話をした。強い関心を示された高木会長が自ら進んで文部省に働きかけることを約束され、その後事態は急速に進展して、現行法規の範囲で支援するということになったのである。
今回は以上です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)
前回の記事はこちら↓
今回は、「五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯」という内容です。現行法規の壁にぶつかる中、学校設置に向けてどのように進めていったかといった舞台裏の話が描かれています。
(読みやすいように適宜改行を入れています)
<五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯>
以上述べてきた考えを実現しようと模索し始めたのは、学校教育課長時代(昭五八)である。県立中学校を新設して既存の高校に付属させる方法や過疎地の廃校を活用して、中学二年から五ヶ年間の全寮制の学校を構想したり、多角的に検討したのだが、肝心なところで現行法規の壁に阻まれて行き詰まっていた。
ところが、一九八五年(昭六〇)に臨時教育審議会が発足し、その審議の過程で六年生中等学校の構想があるという情報を得た。ただ問題は、肝心の普通科が入っていないということであった。この時期、定例の全国教育長協議会教育課程部会に代理出席したのを幸い、六年制中等学校構想の中に、普通科を入れて欲しいと強く要望した。
その後発表された第一次答申には、六年制中等学校で予想される教育の類型として、直接普通科を単独で表示した者はなかったが、提示された五類型の中に「普通教育と専門教育の二元的考え方を柔軟にする」という項目が入っていた。
元来受験教育に偏重した普通科を考えていたわけではなく、知・徳・体バランスのとれた有能な人材の育成を考えていたのであるから、この文言は思惑を裏切るものではなかった。後は可及的速やかに、これが法制化されることを念願した。
さて、問題は、新しい考え方に基づく学校を設置した場合の、社会一般の受けとめ方である。世はまさに受験に対する対処の仕方で、学校を評価する風潮下にある。従って、新設校を社会に認識させるには、相当の努力が必要であることを十分承知しているだけに、設置後の学校経営には、正直言って多少の不安を抱いていた。
しかし、六年間継続して教育できる学校では、中学時代に受験に追い立てられる学校の生徒達より、人間的には勿論、知的学力の習得においても、優れた教育効果を発揮できると考えていた。
一九八八年(昭六三)に教育長に就任して、文科系の能力に優れた生徒のために、これもかねてから検討していた現文科情報科の設置と並行して、中・高一貫教育学校について、具体化の検討を学校教育課に指示した。時の宮路課長、笹山高校教育係長を中心に精力的な作業に入った。
丁度この時期、宮崎県では、県北西部山間地帯(五ヶ町村)に「人間性回復の森」として山村の有効利用を理念とするフォレストピア構想が策定された。この構想の中に「学びの森」ゾーンが位置づけられ、林務部から全国に向けた少年自然の家を想定した施設の相談を受けた。
しかし、既設の類似施設との関係で、有効利用の目途が立たないとしてこれを断った。最終的には「学びの森」の施設については、県教委に一任するということになった。そこでこのゾーンの中核施設として、中・高一貫教育の学校を設置し、森林とその空間を媒体とした教育を展開したい旨回答した。時の四位林務部長・谷フォレストピア対策監(後の林業総合センター所長)の了承を得ると共に、林務部として協力することを約束していただいた。
いよいよ構想の実現に向けて文部省との予備折衝に入ったが、時期が悪かった。その頃大都市を中心に、中・高一貫教育を先取りした私立学校が、小学校に深刻な受験競争をもたらし、これが大きな社会問題になっていたのである。
当方としては、学力検査は行わず校長の推せん調書、実技、面接等で選考することを説明し、従って小学校に受験競争を引き起こす心配はないこと、更には、六年間の修行機関に、個性の発見と創造性を育てる教育の内容を提示して説明するのだが、頑なに容認できないという態度であった。
ここまでくると県単独事業でやる以外にないと肚をくくらざるを得なかった。ところが、世の中どこに救いの神がいるかわからない。当時フォレストピア構想の理論背景を構築し研究していたのは、東京に事務所を置く「森とむらの会」である。
会長は高木文雄氏(元大蔵事務次官、後の国鉄総裁)であり、松形知事が顧問をされていた。その会合で、フォレストピア圏域に設置を考えている中・高一貫教育を目指す学びの森学校(仮称)の構想について話す機会があった。その中で文部省との折衝が難航していることも率直に話をした。強い関心を示された高木会長が自ら進んで文部省に働きかけることを約束され、その後事態は急速に進展して、現行法規の範囲で支援するということになったのである。
今回は以上です。
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