2012年3月14日水曜日

勉強ができる=頭が良い?


このテーマは、中学校か高校のテストで読んだ話がきっかけで
それからずっとひっかかって折に触れて考え続けています。

何のテストだったか忘れたんですが
テスト用紙の下の方にコラム的に書いてあった話です。

細かい内容はもう忘れちゃったんですが
頭が良いということと勉強ができるということは違います
という趣旨の話だったと思います。

なんでそれをまた思い出したかというと、
以下のインタビュー記事を読んだからです。

キリンビールの社長の松沢幸一さんという方のお話です。
「森毅が何を言ったか。「問題が解けることが学力なのではなくて、問題が解けないときに切り抜けるのが学力かもしれない。通信簿の成績というのは、いわばゆがんだ鏡のようなものである。ゆがんだ鏡に映った姿を見て、ゆがんだ姿を気にするのはつまらないことである。しかしそうかと言って、このゆがんだ鏡は気に入らないと壊してしまってはほかに鏡がないのなら損である。ともかくゆがんでいるということを知るだけで辛抱するしかない」と。結構、深い言葉だよね。 
要するに勉強ができるとか、東大を出ましたとか、ハーバード大学を出ましたとか、どこどこの上級公務員試験を通りましたって、これは仕事ができるのとは全然関係ないですよ。それをみんな履き違えているんだよね。 
TOEICなんていくら850点とか900点を取ったって、ちゃんとしたコミュニケーションができないんですよね。それは人間だから日本語で相手の言うことをしっかり理解できる、あるいはこっちから伝えたいことを伝える、お互いに共感を持ってそれが共有できるかという、ここまでいかなかったからコミュニケーションじゃない。英語の点数が高いからグローバル人材とか、こういう話じゃないんですよ。試験の成績と実際の力は違うというのは、森先生なんかも言っているんだよね。「問題が解けることが学力なのではなくて、問題が解けないときに切り抜けるのが学力だ」と。」
出典: http://business.nikkeibp.co.jp/article/book/20120112/226066/?P=3&rt=nocnt (2012年3月13日8:30取得)

僕の考えもこの考え方と基本的に同じです。
勉強ができるということと頭が良いということは
必ずしもイコールではないと思います。

僕自身はいわゆる「勉強」というのは比較的得意です。
メチャクチャできるというわけではありませんが、
テスト的なものは、大抵のものはある程度勉強すれば大体できる自信があります。
ただ、自分が頭が良いかというとそうは思いません。

大学でも仕事し始めてからもそうですが、広く世の中を見てみると
「うわーこの人は頭良いなー」と思う人がたくさんいます。
そしてそれは勉強ができるとかできないとかはあまり関係ありません。

頭が良くて勉強ができる人はもちろんいますが
勉強ができるからと言って頭が良いとは限らないと思います。

つまり、頭が良い→勉強ができるという方向はあっても
勉強ができる→頭が良いというのは必ずしも成り立たないと思います。
(それは大学でも反証例を結構見てきました)

じゃあ、頭が良いって一体どういうことを指すんでしょう?
これは長年にわたって考え続けてきてはいるんですが
あまり明快な答えは出せていません。

頭が良いということの定義が定まらずに
こういう議論を始めてしまう自分もなんだかなあ…
と思うところもありますが、書くことでまた考えも深まるかな
と思ってとりあえず書いてみています。

上の例だと「学力」という言葉を使っていますが
「問題が解けないときに切り抜ける」のを一つの力として評価していますね。
これもその通りだと思います。

強いて言えば、そのへんも含めて
頭の回転が速いとか、深く広く考えられるとか、
自分のアタマで思考し続けられるとか、柔軟に考えられるとか
そういう感じなんですが、これだ!というよりこれかなあ…という感じですね。
まだ答えを探っています。

あと、頭が良いなあと思う人は
大抵膨大な知識に裏付けされた知見を持っていることが多いように思います。

いろんなことを知っているというのではなくて
物事についていろんな角度から見ているという感じでしょうか。
博覧強記というよりは、自分が関わっている物事について
自分のアタマで考え抜いていて、自分の言葉でスッと語れる、そんな感じですね。
なんていうか、「知識」っていうより「知恵」っていう方がしっくりきます。

書いてみて思ったんですが「知恵」って良い言葉ですねえ…
ただ、また「知恵」って何かって聞かれちゃうと困るんですが(^ ^;)
そのあたりはまたおいおい考えていきたいと思います。

とりあえず自分も「知恵」のある人になりたいなと思ってます。
なんかあんまりまとまりがないですが
今回の記事はこのくらいにしておきます。

6 件のコメント:

  1. おじゃまします。
    ドン君…こと松本暁義くんと同級生の田部です。
    五ヶ瀬中等教育学校の教育は、自分が自分の道を歩き始めるときに6年間詰め込まれたものが、内から溢れてくるようなものだと今は思っています。
    その人だけの「曇りなき眼」を育てる原動力ともいえると思います。
    勉強の能力と頭のよさ・・・ということについて、
    五ヶ瀬にいた6年間は、「勉強の能力」に苛まされてきたように思います。中学校のときは勉強に追いつけずに、「僕は頭が悪いなぁ…。」と。
    でも、少人数制(本当にマンツーマンでした(笑))とスパルタチックな宿題のおかげで、高校に進級してからはやる気のほうが大きくなってきました。
    その点について、当時の先生方の力量の大きさや熱意のおかげともいえると思います。
    また、寮生活の中で、分からないことを他の同級生に教えてもらったりすることができ、相互に助け合えていたところも大きかったでしょう。夜の学習時間中や余暇時間の回りの様子などにも影響されたこともよかったと思います。

    大学に入っても、その勉強癖のおかげで試験やレポートは助かりましたし、研究志向のスタンスも持てました。
    ただ、仕事をするようになってからはどんどん廃れていっています・・・。

    では、頭の良さはどうか。
    正直なことをいうと、これは私には不足の多いところだと思います。
    大学のお師匠さん(現:上智大学 藤井達也教授)の話で、「体験を経験に」ということがあります。
    これは精神障害者の当事者性の持つ価値について話していたことですが、一つひとつの体験を練り上げて経験にしていく作業が重要だということです。
    人それぞれ、いろいろな体験をしていますが、それ自体では単発のものです。
    「体験」を改めて振り返り、その意味を見出し、自分の中に取り込みなおすことで、「経験」となるということが大事。
    頭のよい・・・というところでは、この経験を積み重ね、自分の「眼」を持ち、「実力」を発揮すること、知識として蓄えることではないかと思います。
    そのためには、やはり勉強も必要になってくるでしょう。

    勉強も頭もない小生ながら、
    久しぶりに考えてみました。

    ドン君先生、いかがでしょうか。

    ちなみに自己紹介を少し。今は、公務員になって宮崎に帰っていますが、もともとは大学で社会福祉を専攻し、NPO法人で精神障害者の地域生活支援の活動に携わっていました。(今でも、その部分と志向は変わっていません。)

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  2. おー!コメントありがとう!
    しかもかなりいろいろと考えたことを書いてくれて面白かったです。

    しかし、「勉強の能力」に苛まされてきたっていうのは、そうやったんやねえ…
    田部はうちの学年の中でも1、2を争うほど勉強してたイメージがあるけど
    やる気の方が大きくなってたんであればそれは良かったねー。

    あと、それが大学に入ってからも生きているっていうのは良い話やなー。
    仕事で廃れてるのはぜひ取り戻さな!(笑)
    おれは今が一番勉強してる感じがします :)

    そのへんの話はもう少し詳しく聞いてみたいなー。
    別途インタビューをさせてくいやん。

    あと経験と体験の話も良い話やね。
    このへんはちょっともう少し詳しく考えてみたいポイントがあるので
    ブログの記事の方でも引用して書いていきたいと思います。

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  3. どうもどうも五ヶ瀬高校1期生です。
    ドン君、田部君お久しぶり。

    大変興味深く読ませていただきました。

    私の持論ですが、そもそも『勉強ができる』という言葉自体が何を指して言ってるかって時点で議論の内容が変わってくると思います。
    『勉強ができる』=〔テストの点数がいい〕であれば、これはさらに=〔成績がいい〕となるのでしょう。この場合、【勉強】とは学校や塾などで学ぶ、点数をより多く取る手法の事を指すかな。であるならば『勉強ができる』≠『頭が良い』だと思う。

    【勉強】が社会勉強等の言葉で使われる意味の【勉強】であるならば、『勉強ができる』=〔人生のすべてが勉強だと思える〕=『頭が良い』になるのかなと。

    自分自身は学校の授業や宿題を【勉強】と思ったことは一度も無い。人と話したり、色んなことを経験・体験したり、成功や失敗、苦悩や葛藤など人生の全て一瞬一瞬が学びの場だと思うのです。そういう意味ではより多くの経験をすることこそ【勉強】だと。
    そう思える人は結果的に見ると『頭が良い』ってことになるんじゃないかな。

    どうでしょう?

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    1. 眞鍋先輩、コメントありがとうございます!読んで頂いて嬉しいです。

      コメントの内容については自分もほとんど同じ考えだと思います。「勉強ができる」っていう言葉の定義次第で変わってきますが、上で言っていた時の「勉強ができる」というのは、前者の方(テストの点数や成績)のことを指していました。これは、自分が生徒だったときの用法をイメージしていました。

      一方、「【勉強】が社会勉強等の言葉で使われる意味の【勉強】であるならば、『勉強ができる』=〔人生のすべてが勉強だと思える〕=『頭が良い』になるのかなと。」っていうのはまったく同感です。

      最初の方が狭義の意味での勉強、後の方が広義の意味での勉強で、語感としては後者は「学び」といった方が分かりやすい気もするのですが、このあたりは感覚の問題もあるのでいずれにしても定義次第ですし、いずれにしても人生のすべてが勉強であると思っています。

      ただ、1点だけ付け加えるなら、広い意味での勉強という意味では、自分も人生のすべてが勉強の連続だと思っているので、学校の授業や宿題もその一部だと思っています。もちろん、それだけでなく、人との出会いやコミュニケーション、授業に限らない経験も重要な要素だと思いますが、全部ひっくるめて自分の学びとしていけるような、そんな生徒が育つ学校だと良いなと思っています。

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    2. ドン君

      もちろんその通り。授業や宿題ももちろん広義の意味においての勉強です。ただ、自分にとっての判断基準として人生においてそれが必要な勉強なのかってことだけです。古文や漢文などは特に何で勉強するの?って感じでした。

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    3. コメントありがとうございます。必要かどうかの基準の立て方にもよると思いますが、確かに古文や漢文の勉強の必要性っていうのは見方が分かれるところですね…

      ただ、勉強している最中に必要性が分からなくても勉強しておく意味もいくつかの観点からはあると思います。1つは、僕がこの間五ヶ瀬でも話した内容や以前の記事で書いた話とも関連しますが、どこで点と点をつながるかっていうのは後になって分かることも多いので、生徒の時に意味がよく分からないとしてもやっておくというのは悪い選択肢ではないんじゃないかなと思います。

      もう1つは、必要な勉強かどうかは分からなくてもやってみるっていうのは人生や経験の幅を広げる上で良いんじゃないかなと思っています。自分も学校の勉強の内容によっては、勉強する必要あるっちゃろかみたいなことを言ったりしていましたが、今から考えると、その考えだけで勉強すると自分がその時に必要性が見えていた範囲でしか幅が広がらないので、もっといろんなことに興味を持って勉強してみても良かったなと思っています。

      また、学校の勉強に限りませんが、興味がなかったことについてやってみると意外に面白かったり、人と話をする際も自分にとって必要かどうか今はどうつながるのか良く分からなくてもとりあえず話を聞いてみると新しいものの見方を教えてもらえたりするので、そういうスタンスを身につけるためにも、学校の勉強において、その時の判断を一旦留保してとりあえず勉強してみるっていうのも悪くはないんじゃないかなと思っています。

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