2013年2月22日金曜日

フォレストピア学びの森学校―「おわりに」


前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)

前回までの記事はこちら↓
今回は、「おわりに」という内容で今回で最後です。

開校後四年を迎えた時点での振り返りと今後の展望について述べられています。




<おわりに>

 開校後四年を迎え、一期生として入学した中学生が全員揃って高校に進級した。今春卒業した高校一期生は、三年間の教育機関であったが、伸び伸びと生活している姿に、他の進学校と比較して一部保護者の懸念を呼んだ。しかし、自ら求めて学ぶ態度を身につけた生徒達は、入学時の学力を想像以上に伸ばし、各自の進路目標に向って予想を遥かに越える進学状況を示した。

 指導に当たった若い教師達は、献身的で生徒一人一人の正確まで知り尽くしている。生徒達も、またそれぞれの教師を知り抜いている。こうした集団が都市部から隔離された形の山村で、人生の目標に向って静かに思いを確かめながら生活している姿は、近年あまり見かけない光景であろう。体験学習(課題解決学習)は学習方法、自発的学習態度の定着に効果的であり、強制的に作られる学力より、確かな学力を身につけることを実証してくれた。

 じっくり待つ教育が、知・徳・体三拍子揃った人間としての有能な人材を育成する教育手法の一つであると確信している。



以上です!

2013年2月15日金曜日

フォレストピア学びの森学校―「学校設置にあたって」

前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)

前回までの記事はこちら↓
今回は、「学校設置にあたって」という内容です。
(読みやすいように適宜改行を入れています)

学校設置の決断の後に、具体的にどのように設立準備が行なわれて来たかが述べられています。淡々と語られていますが、行間からは前例のない中で新しい学校づくりに向かう中での困難やそれを乗り越える情熱が見えてきます。


<学校設置にあたって>

 学校設置が決定した平成三年(一九九一)三月末教育長を退職したが、「フォレストピア学びの森学校設置検討委員会」が庁内に設けられ、学校建設推進専門員の肩書で前期委員会の会長を命ぜられ、具体的な計画に当たることになった。後任の高山教育長は、次長時代からこの学校建設の経緯を十分理解しておられたので、事は順調に運ぶことができた。

翌平成四年に有識者、PTA関係者を中心にした「フォレストピア学びの森建設構想協議会」に切替えて、学校の基本理念、学校・寮の運営、入学選抜方法、施設・設備等の協議が行われた。その結果、感性と感動と共に野性味豊かな人間の育成、個性を重視した選択科目の導入と指導者の確保、地元中学校との整合性、男女比の問題、寮におけるハウスマスター制の導入の方針が策定された。

その間、県教委では、学校に対するアンケート調査を行い、保護者の期待を裏付ける結果と応募者確保の十分な手ごたえを得ていた。協議の過程では、種々の問題提起があったが、中でも小卒直後の女子を母親の手元から話すことへの不安がかなり強調された。

しかし、現代の女子は男子より自立している者が多く、順応性も高いこと、思春期の心身の変化については、養護教諭、寮母、ハウスマスター(教諭夫婦が専任で寮に常駐)によって、最大限の対応をすることで結着した。今一つは入学定員に占める男女比の問題であったが、議会の意見等を勘案して男子七対女子三に設定された。協議と並行して校地の造成工事に着工した。
(用地買収については、五ヶ瀬町役場の献身的な協力を得たことを付記しておく)

 平成五年四月一日付で「新設県立学校開設準備委員会」が発足、永友忠昭委員長、岩切正憲、木許禧憲、靍田歳明委員の四氏が任命された。

この委員会では、校事、寮における生活時間割を規定、校則を設けず生徒の自立した生活態度を育てること、成績順位を表示せず、生徒の進路目標に対する到達度で評価すること、生涯の指針になることを願って、志・忠・恕・妙・気の五訓を設定、選抜科目、体験学習を主体とした教科・科目の検討、地域の古老・名人による技能の習得、地域家庭へのホームステイによる交流等々きめ細やかな詰めを行う。

何しろ前例のない理想を追っているわけだから、時に行き詰まることが多かったが、そんな時は安酒を汲みながら侃々諤々やったものである。結果的には、その中から意外性のある名案が生まれた。

 平成五年十二月十六日「教育関係の公の施設に関する条例の一部を改正する条例」が議決され、ここに宮崎県立五ヶ瀬中学校・高等学校の設置が決定された。平成六年一月一日には初代校長永友、教頭に岩切(高)、木許(中)、事務長靍田の四氏が発令され入学選抜検査、教職員人事案、開校準備等に追われる毎日が続いた。そして、平成六年(一九九四)四月一日開校、同十一日第一回入学式が挙行された。


今回は以上です。

2013年2月8日金曜日

フォレストピア学びの森学校―「松形知事の決断」


前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)

前回までの記事はこちら↓
今回は、「松形知事の決断」という内容です。
(読みやすいように適宜改行を入れています)

以前の記事でも書きましたが、学校設置の決断がなされた時の様子がドラマチックに描かれています。この決断がなかったら自分の人生もまた大きく違っただろうなと思うと感慨深いものがあります。



<松形知事の決断>

 折角意気込んで作成した予算要求書は、財政課長査定で没となる。知事に説明だけでもさせて欲しいと強引にねじ込んで、説明することだけは認められた。

県教委の予算説明がすべて終了したところで、番外の形で説明に移ったのだが途中から予算要求に切替えた。当然、財政課長からストップがかかったけれども説明を続けた。

同席している県幹部は、当初予算額は勿論、教職員定数法に県立中学校の規程がないことから、全員高校共有を県単独事業で当てることにしたための人件費及び施設設備を含む後年度負担額、遠隔地で全寮制であることから応募者に自信が持てないなどの理由で賛成してもらえる雰囲気ではない。

半ば諦め、半ば投げ遣りの気持で「県政の柱の一つである『人づくり』は、学校教育が基盤である。二十一世紀に国際社会で活躍する人間は、豊かな人間性と確固たる人生観・人生哲学を持った者でなければならない。そういう人間を育てたい」などと喋っているうちに座が白けてしまった。何の反応も返ってこないので完全に諦めた。

沈黙が続いた後、知事から「その学校の生徒にどんな人間像を期待していますか」と質問があった。

すでに言いたいことは言い尽くしたつもりでいたから、これ以上何も言うことはない。仕方がないから「宮崎県は神代の昔、日向(ひむか)の国と言った」と切り出したら、幹部の何人かが閉じていた目をぱっと開いて私を見た。

構わず続けることにして「後の神武天皇は、この地から東征されて、わが国の基を築かれたと言う言い伝えがある。幼少の頃から神武天皇を育んだのは我々の祖先であり、その子孫が今の子ども達である。そこで二十一世紀中に、この学校の卒業生の中から、一人で良いから第二の神武天皇を世に送り出したい」とやってしまった。

並居る幹部の諸氏は無表情のままであったが、県教委の職員は、これで一巻の終りと思ったという。私もつまらぬことを言い過ぎたと後悔した。これで夢は消えたと観念した。

ところが沈思黙考されていた知事が、いきなり「児玉さん、やろうよ!」と決断を下された。



今回は以上です。

2013年2月1日金曜日

フォレストピア学びの森学校―「五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯」

前回に引き続き、「フォレストピア学びの森学校」という手記の掲載です。
(著者は、五ヶ瀬中学校・高等学校の設立に深くかかわり、宮崎県の教育長も務められた児玉郁夫先生です)

前回の記事はこちら↓
今回は、「五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯」という内容です。現行法規の壁にぶつかる中、学校設置に向けてどのように進めていったかといった舞台裏の話が描かれています。
(読みやすいように適宜改行を入れています)



<五ヶ瀬中学校・高等学校設置の経緯>

 以上述べてきた考えを実現しようと模索し始めたのは、学校教育課長時代(昭五八)である。県立中学校を新設して既存の高校に付属させる方法や過疎地の廃校を活用して、中学二年から五ヶ年間の全寮制の学校を構想したり、多角的に検討したのだが、肝心なところで現行法規の壁に阻まれて行き詰まっていた。

 ところが、一九八五年(昭六〇)に臨時教育審議会が発足し、その審議の過程で六年生中等学校の構想があるという情報を得た。ただ問題は、肝心の普通科が入っていないということであった。この時期、定例の全国教育長協議会教育課程部会に代理出席したのを幸い、六年制中等学校構想の中に、普通科を入れて欲しいと強く要望した。

 その後発表された第一次答申には、六年制中等学校で予想される教育の類型として、直接普通科を単独で表示した者はなかったが、提示された五類型の中に「普通教育と専門教育の二元的考え方を柔軟にする」という項目が入っていた。

 元来受験教育に偏重した普通科を考えていたわけではなく、知・徳・体バランスのとれた有能な人材の育成を考えていたのであるから、この文言は思惑を裏切るものではなかった。後は可及的速やかに、これが法制化されることを念願した。

 さて、問題は、新しい考え方に基づく学校を設置した場合の、社会一般の受けとめ方である。世はまさに受験に対する対処の仕方で、学校を評価する風潮下にある。従って、新設校を社会に認識させるには、相当の努力が必要であることを十分承知しているだけに、設置後の学校経営には、正直言って多少の不安を抱いていた。

 しかし、六年間継続して教育できる学校では、中学時代に受験に追い立てられる学校の生徒達より、人間的には勿論、知的学力の習得においても、優れた教育効果を発揮できると考えていた。

 一九八八年(昭六三)に教育長に就任して、文科系の能力に優れた生徒のために、これもかねてから検討していた現文科情報科の設置と並行して、中・高一貫教育学校について、具体化の検討を学校教育課に指示した。時の宮路課長、笹山高校教育係長を中心に精力的な作業に入った。

 丁度この時期、宮崎県では、県北西部山間地帯(五ヶ町村)に「人間性回復の森」として山村の有効利用を理念とするフォレストピア構想が策定された。この構想の中に「学びの森」ゾーンが位置づけられ、林務部から全国に向けた少年自然の家を想定した施設の相談を受けた。

 しかし、既設の類似施設との関係で、有効利用の目途が立たないとしてこれを断った。最終的には「学びの森」の施設については、県教委に一任するということになった。そこでこのゾーンの中核施設として、中・高一貫教育の学校を設置し、森林とその空間を媒体とした教育を展開したい旨回答した。時の四位林務部長・谷フォレストピア対策監(後の林業総合センター所長)の了承を得ると共に、林務部として協力することを約束していただいた。

 いよいよ構想の実現に向けて文部省との予備折衝に入ったが、時期が悪かった。その頃大都市を中心に、中・高一貫教育を先取りした私立学校が、小学校に深刻な受験競争をもたらし、これが大きな社会問題になっていたのである。

 当方としては、学力検査は行わず校長の推せん調書、実技、面接等で選考することを説明し、従って小学校に受験競争を引き起こす心配はないこと、更には、六年間の修行機関に、個性の発見と創造性を育てる教育の内容を提示して説明するのだが、頑なに容認できないという態度であった。

 ここまでくると県単独事業でやる以外にないと肚をくくらざるを得なかった。ところが、世の中どこに救いの神がいるかわからない。当時フォレストピア構想の理論背景を構築し研究していたのは、東京に事務所を置く「森とむらの会」である。

 会長は高木文雄氏(元大蔵事務次官、後の国鉄総裁)であり、松形知事が顧問をされていた。その会合で、フォレストピア圏域に設置を考えている中・高一貫教育を目指す学びの森学校(仮称)の構想について話す機会があった。その中で文部省との折衝が難航していることも率直に話をした。強い関心を示された高木会長が自ら進んで文部省に働きかけることを約束され、その後事態は急速に進展して、現行法規の範囲で支援するということになったのである。



今回は以上です。