2012年7月30日月曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(7) - 研究室・卒業論文


五ヶ瀬中等教育学校2004年卒業生の荒武里衣さんへのインタビューの続きです。
前回は、大学進学までの話を聞いていきましたが、今回は入ってからの話です。

前回の記事はこちら↓




■研究室の話

―研究室はどういう研究室だったんですか?

研究室は、化学で一番大変なところだったんです(笑)


―ええ!?何でそんなとこ行ったんですか?

推薦で入ってると、化学から生物に転科するっていうのができなかったので、化学の中でできるだけ生物系に近いところを探したらそこだったんです。
一番大変なところで厳しかったです…

他にも同じ分野の研究室があったんですけど、
その先生がその分野で、うちの大学では一番良いみたいな感じで、研究室としても頑張ってるっていう感じだったのでそこに入りました。

でもまあ…大変でしたね…


―大変ってどう大変だったんですか?

先生の求めるレベルがあまりにも高すぎたんです。遊び回っている琉大生にとってですがwww
研究室のゼミでは、関係する分野で面白そうな最近の論文を自分で探してこいって言われたんですが、途方にくれてました…

留学生もいるので、英語でスライド作って、英語でセミナーが始まるんですけど、読んでこいって言われてそのまま発表すると怒られました。

「みんな読んできてるんだから、そこに書いてないことをスライドで発表するのが普通だろ」っていうようなことを言われて、「ハイ、すいませんでした…」みたいな。

厳しかったので、「そんなんで大学生だなんてなってない」とか「実験しないとか意味がない」とかバンバン言われました。

琉大の生物系の学生って琉大ならではのことをやりにきてるのでマジメな人が多いんですけど、
化学系の学生って余り琉大に特化した研究をイメージして来てる感じでないので、正直あんまりマジメじゃない人も多いんです。

だから、就活を第一に考えて研究室になかなか顔をださない人も多いですし、何人かの先生もそれで良いみたいなところもあるし。

なのでとてもゆるい研究室も多くありました。でも研究って意味ではどうかなってところもありますよね。


■卒業論文の話

―でもそれは大変だけど良い研究室に行けたんじゃないですか?

そうですね。良い研究室に行けました。
先生のヤル気も意識も高かったので。

研究室では大変でも何とか食らいついてたんですけど、遊んでることは遊んでたので、卒業間近になって卒業研究として出せる結果が何もなくてヤバイっていう状況になりました(笑)

卒論提出の前に卒業研究発表があって、卒業研究発表の前に要旨を提出する必要があって、
その提出に間に合わないのでは???????ってことになってました。

要旨提出の1週間前に先生と「先生!これはヤバイですよね(´・ω・`)」っていう話をしてたら、先生が急に「これやりな」って新しいサンプルを持ってきてくれたんです。だいたい1週間しか無かったんですけど、徹夜して、何とか結果を出せました。奇跡でしたねwwwwwww

そこが私が初めてマジメに実験したところだったんです(笑)


―追い込まれたら力を発揮するんですね(笑)ちなみに学校の夏休みの宿題はいつやってたタイプですか?

8月31日です(笑)それが、寮に帰って来てからみんなで泣きながらやるって感じでした。テストも一夜漬けでしたし。


―なるほど、三つ子の魂百までって感じですね(笑)卒論の方はその後どうなったんですか?

要旨は途中だったんですけどとりあえず提出して、発表までの期間にまた実験を繰り返して、何とか形になって発表しました。そのまま修士に行きました。


―修士に行くのって試験があるんじゃないんですか?

8月に試験があります。それは元々行くつもりがあったので受けてました。生物系は受ける人がすごく多くて合格が難しいんですけど、化学はそこまでではないのでなんとか。。。。。

ちなみに私は頭が悪かったから、各教科(有機化学・分析化学・無機化学・物理化学)に家庭教師が付きましたwwww
同級生で頭のいい人達が教えてくれました!!

生物は、沖縄に特化している研究室が多く、他大学から受ける人も多いので合格も難しいです。



―ちなみに卒論はどういうテーマだったんですか?

卒論は、海綿から新規化合物をとり出すっていうものでした。海綿っていうのは、スポンジっていうか、無脊椎動物で海に入った時にホヤみたいな感じで岩とかにくっついてたりするやつです。そんなに目立たないです(笑)

先生がインドネシアに行って取ってきてたやつで、何となく「これやって」って言ってたやつから新しいものをとり出すことができたんです。


―え、それってすごいんじゃないんですか?

普通は、大抵すでに見つかっているものを5個から10個くらい見つけて卒論ですっていうのが多いですが、私の場合はそれができてなかったんです。

私の場合は1個しかなくて、せめて新しいものがあればどうにかなるだろうみたいな感じでした。
結局は既知物質もそういえば2個ぐらい出したんですが(笑)


―なんか一発逆転みたいな感じですね(笑)でもすごいですね、新しいものを見つけるって。

でも修士になると、新しい化合物を1-2個見つけてるのが当たり前みたいになります。なので、まだ一応伸びしろはある分野です。

ただ、実際にはその新しいものが病気等の何かに効かないと意味がないんです。見つけた後は、何に効くかを調べていく実験があります。


今回は以上です!

2012年7月23日月曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(6) - 大学での部活・勉強・研究

五ヶ瀬中等教育学校2004年卒業生の荒武里衣さんへのインタビューの続きです。
前回は、大学進学までの話を聞いていきましたが、今回は入ってからの話です。

前回の記事はこちら↓




■ダイビング部の話

―入ってからはどんな学生生活だったんですか?

ダイビング部(※) に入ったので、ほとんど部活に行ってました。海の生物に興味があったこともあって、元々中3の夏休みにカードだけ取ってたんですよ。せっかく沖縄に来たんだったらダイビングをやるしかないと思って(笑)

※正確には「琉球大学ダイビングクラブ」で、「U.R.D.C. University of the Ryukyus Diving Club」と言うそうです。
 荒武さんが所属していた時にはなかったそうですが、後輩の方がブログを作っているので良ければ見てみてください!
琉球大学には、当時3つのダイビングクラブ・サークルがありました。お金が無かったからサークルとは違って初期費用がかからないダイビングの部活に入ったんですけど、結構スパルタでした。体育会系でひたすら泳ぐ感じで、海猿みたいな感じでした(笑)週に1度は海にロープを張って、その周りをクロールで200mとか300mとかやったりしてました。

ダイビングクラブは、顧問の先生はいますが、実際の活動は学生のみで行っています。外部のショップインストラクターと共に活動をする形式ではないので、その分危険に敏感になり、ダイバーとして自立してないといけません。なので、自分たちで率先して、教科書みたいなものや免許制度を自分たちで作ったりしているんです。教科書は年に1回、一から作りあげます。常に新しい情報を組みこんで、次の新入部員に不足なく勉強してもらうためです。

免許は、シュノーケリングの免許とスキューバーダイビングの免許と2つあって、シュノーケリングの免許は1年間でとらないと退部なんです。免許の試験は実技が2回と筆記が1回あったんですけど、それがまあ過酷で過酷で…私の時は筆記を全部解くのに8時間くらいかかってました。


―8時間!?大学受験でもそんなんないでしょー。

早ければ4時間とか6時間とかで解く人もいるんですけど、めっちゃ辛かったです。

問題数は12問とか(くらい)で少ないんです。例えば、海で溺れている人がいる場合どういう処置をすれば良いのか書きなさいとか。それで、こういう場合はこういう処置をして、その時に使う手法はこういう手法で…とか答えるんです。


―それは辞めようとは思わなかったんですか?

辞めようと思う人はいますね。週に1回は部活動で海に行かないといけないですし、それ以外にも海に行かないとテストに受からなかったりするので。


―荒武さんとしては部活は面白かったですか?

そうですね。やっぱバカな人が多いっていうか(笑)はっちゃける人が多くて、あの頃は若かったなって思うようなことをやってました。その体育会系の部分さえ我慢すれば、いい友達もできて楽しかったです。


―じゃあ大学はずっとダイビング三昧ですか?

そうですねー、日焼けして闇と同化するくらい真っ黒でした(笑)


―僕の奥さんも初めて会った時は真っ黒だったですね(笑)


■大学での勉強の話

―勉強はどんな感じだったんですか?

1、2年まで教養が多くて、2、3年から化学の専門の実験が入って来ました。有機化学、無機化学、物理、分析の4つです。実験はレポートを出さないといけなくて大変でした。

生物も解剖とかいろんな実験があるんですけどそれは選択制でした。化学は必修で、絶対その4つの実験をとらないといけなくて、結構ウェイトが大きかったです。とる科目も、生物は結構ばらばらでしたけど、化学は選択とは名ばかりでみんな同じようなものをとる感じでした。

生物の中では、授業内容などが専門に特化していくため、年をおうごとに生物の人同士でもお互い何をしてるのかだんだん分からなくなっていくんですけど、化学はどんどん生徒同士が結束していく感じです(笑)

実験は、ただただ辛かったです。午後はずっと実験の授業になるので、時間がかかります。
成功すれば良いんですけど、失敗すると成功するまでやります。1人失敗すると、うまくいくまでやり直しで、また1時間待ちとかで「うおおー」ってなったり。

その頃は完全に私は大学生らしくというか、遊んでました。
なので、予習も辛いし、レポートも辛いし、なるべく過去の先輩のレポートをもぎとってきて、
結果は違うけど大体似たような感じに仕上げて提出したら、怒られて返ってくるとかありました(笑)


■研究室配属の話

―研究室配属はどんな感じで決まるんですか?

4年生から研究室に入りました。これがまた適当なんですよ。生物の人はちゃんとしてて、2年生の頃から希望先の先生のところに通ってたりしていたんですが、 化学は3年生の最後の2月とか3月に集まって、「じゃあ、みんなどうする?」って感じで一気に決まります。先生達は学生で自主的に決めなさいという感じです。現在はわかりませんが…

研究室がどのくらいの定員かっていうのは一応知らせてもらって、研究室はこういうことやるよっていう先生のレクチャーも一通りやるんですけど、その後にホワイトボードを使って「みんなどこ行く?」みたいな感じで第一希望をまとめます。

もちろん偏るので、どうにかしてばらけさせていって、4月までに絶対決めるっていう感じでした。


―荒武さんが行きたいところは第一希望で決まったんですか?

私はむちゃくちゃ遊んでたんですけど、高校の時に先生を全部調べてたのでどの先生が何をやってるのかはある程度知っていました(笑)

それに化学系に来たはいいですけど、根本的に化学の勉強はできなかったですし、数学もそんなに得意でないので物理化学とかは「絶対ムリ!」って思っていました。

なので高校の時の記憶を思い出して、なるべく生物系に近い系統の先生のところに行こうと思っていました。結局、有機化学って分野を選択しました。

実は、その時最初から院に行こうと思ってたんです。それは、推薦入試を受ける時から大学院に行った方が有利だと思ってたからなんですが。。。


―へー、自分の場合大学院っていうものがあるっていうことを知らなかったですけどね(笑)でもなんで院の方が有利なんですか?

理系だからかもっていうのもあるかもしれないですし、そういうイメージでした。

担任が文系と理系にいたじゃないですか。理系の先生は普通に大学を4年で出て先生になったんですけど、文系の先生は大学院まで行って先生になったんです。

それで、「何で大学院まで行ったんですか?」っていう話になるじゃないですか。そしたら、院を出ている方がお給料が良いっていう話だったんです。一応レベルが1個上がるらしいんです。


―それはそうですね。でもそれは年齢の問題ですよ。年功序列の場合の話ですけど、2歳分上なので、年取ってる分高いだけであって、22歳で仕事を始めても2年経って、大学院を出てきて24歳で始める人ともらえる額はそんなに変わらないですよ。だって、24歳から働く人は、2年分少なく働くのでその分もらわないとっていうのもあるんじゃないですかね。

そうだったんですかー。でもその時は、「大学院出た方が有利なんだー」っていうイメージでした。
あと、就活を始めた時にサイトを見ると、大学院の方が給料高いじゃないですか。でも最初のイメージはその話でした。


―なるほど…それはその説明合ってるのかなー(笑)でも学科によっては院卒の方が就職厳しくなったりするけどそういうのはないですか?

化学を選択していると院卒の方が有利だったんですよ。企業の研究職にかぎりますけどwww あと、大学では遊んでたので多少マジメにやろうかなっていうのもあって。


今回は以上です!

2012年7月16日月曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(5) - 大学進学

五ヶ瀬中等教育学校2004年卒業生の荒武里衣さんへのインタビューの続きです。
前回は、進路を選んだ理由の話を聞いていきましたが、今回もその続きです。

前回の記事はこちら↓





よく見ると可愛い?
■進路の話
―それが高2くらいの時の話ですね。進路はどうしたんですか?

最初は大学を探しました。海洋系の勉強ができる大学探しが最初です。でも、難しいところばっかりで、「行けるわけないやん」ってなりました。「なんとか狙えるかも…」というところで琉大があったんですが、ちょっと分野違いでした。私立も東海大学とかを見たんですけど、「お金かかるわー」ってなって専門学校まで広げて探したら、日本外国語専門学校っていうところを見つけたんです。

「琉大かー、ちょっとちがうんだよなー」ってなってる時にこの専門学校を見つけて、「これいいやん!!!」と思って調べてました。そのプログラムで、1年間外国語をめっちゃ勉強すれば、あとの1年間いろんな国で研修を受けられるっていうものがありました。

その中に、オーストラリアの研究所でイルカとかアシカとかの研究を手伝えるっていうのがあって、私は「ぶっちゃけそっちが良い!」って思ってました。英語は全然ダメだったんですけど、なんかこっちの方が楽しそうだしと思って。

でも結局周りからは大学に行ってほしいみたいな雰囲気がありました。うちの親は結構放任主義で、「どっちでもどうぞ」みたいな感じだったんですけど、先生からは「一応大学を出た方が良いと思う。専門だったら、もしまた後でそこに行きたかったら入りなおせば良いから」って言われたりしてました。なので、一応琉大を推薦で受けてみるみたいな感じでした。


―そうだったんですねー。そこの専門学校は結局受けはしたんですか?

受けもしなかったですね。


―後からそこに行ってたらなーみたいな後悔はなかったんですか?

後悔はないですね。琉大に入ったらもうほとんど遊んでましたし(笑)


―大学はどうやって決めたんですか?

海洋系のことができる大学を探しだすと、難しい大学が多かったんです。さっき言ったような化学の方の研究も楽しかったんですけど、それをやったのはたまたまで、化学の勉強は全然できませんでした。

元々は生物が好きで、生物とのんびり触れ合ったりしたかったこともあって、やっぱり生物の方が良いなと思ってました。できたら、イルカとかクジラとかの調査船に乗ったりとかっていうのをモヤモヤ~っと夢みて海洋生物の研究ができる大学を探しました。

そしたら、東大とか北大とか海洋大とかで難しいところばかりでした。私立を探してみたら東海大とかもあったんですけど、お金の面で厳しくて。最終的には琉球大を目指しました。

とは言っても、成績としては難しくて、1年留年するしかないなーと思ってました。でも、一応推薦を出そうと思って出したんです。その時、生物系と化学系を分けて募集していました。もちろん生物系で出したかったんですけど、なんと募集してたのが高校が水産科の人のみだったんです。普通科とかはダメで水産科の人しか受けられなかったんです。

それはないだろーと思って、化学の方を見てみたら、化学は普通科でも可だったんです。当時は勉強がホントにできなかったんで、「どうせ受かるわけないし、いいや」と思って受けたら受かったんです。


―その時の気持ちはどうだったんですか?

その時は半分遊んでました(笑)一応推薦だから結構調べたんですけど、全然生物じゃなくて、化学関係のことしかやってないところだったんです。なるべく生物に近いのをと思って、生物から化合物を取り出すっていうのを見つけました。

「あ、これはなんか、そういえばフォレストピア研究で多少やってた化学の分野に、似てないけどなんか似てないことも…!うん!」とか思いながら、調べてました。当時の生物の先生には、「海洋分野の研究だったらこれが一般的なんじゃない、流行ってるよ」と言われたりもして、不本意ながらもそこに受けに行って、試験を受けた後は遊んでました(笑)


―どんな試験だったんですか?

試験は面接でしたけど、一応センター試験も込みでした。時期としては2月の上旬に受けて、中旬に結果が来るというものでした。一般入試も受けようと思って、生物で希望を出してたんですけど、センターの結果も悪かったので受かるはずないなと思ってました。でも、結局推薦で通ったから一般入試はどこも受けてないですけど。

面接は、どういう志望かっていう内容の後に、口頭試問っていう学問的な内容を聞かれるものもあったんですけど、それも全然できなくて、もう落ちたと思ってました。確か、化合物が並んでてダイオキシンはどれでしょう的な問題があったのを覚えています。

それで、友達と、「予備校どこ行くー?」「北九州予備校とか辛いよねー、駿台かなー」とかそういう話をしてたんですけど、まさかで受かってしまいました。


―それはでもどういう気持ちだったんですか?行きたいところに近いけどベストではないみたいな感じですか?

そうですね。でも当時は私はそんなに勉強には情熱がなかったんです。受かったなら良いんじゃないと思ってました。それでそのまま来ました。




今回は以上です!
次回は大学に入ってからの話を聞いていきます!

2012年7月9日月曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(4) - フォレストピア研究&NASDAの実験の話

五ヶ瀬中等教育学校2004年卒業生の荒武里衣さんへのインタビューの続きです。
前回は、進路を選んだ理由の話を聞いていきましたが、今回は高校時代の話です。

前回の記事はこちら↓



高校時代の実験が
今にもつながっている…?
■フォレストピア研究&NASDAの実験

―でもそこからどうやって切り抜けていったんですか?

そこからは行動力です。フォレストピア研究っていう授業があったじゃないですか。民俗について発表するとか、年に1回研究をやって発表をするっていう場がありましたよね。

中3と高2の時はウェイトが大きくなって、中3だと論文を10枚絶対書きなさいというのがありました。それで、高1の時に、高校生の時期にやる研究テーマを決めました。そこですごい経験をさせてもらいました。ちなみに中3では海辺に生息する植物とか海水のPHとかやってた気がします。

その時、学校が宇宙開発の組織と仲が良かったんです。当時はJAXAではなくてNASDAって言ってたんですけど、その組織が、全国の高校生から実験の募集をやってました。たんぱく質の結晶を作る実験をやりませんか?っていうものでした。

キットを渡されて、これとこれとこれを使って、どういう条件下で結晶が一番大きくて良質の結晶ができるかを研究しなさいというものでした。全国で何百という高校の化学クラブとかのグループがやってて、「それに応募してみない?」って言われて、「じゃあ、やります」っていうことで5人くらいで応募しました。

1回目か2回目のレポート提出の際に選考があって、全国から5校選ばれました。その5校の参加者は、実際に宇宙で行われる実験の内容を考えて、その実験を実際にコロンビアのクルーにやってもらえるということになっていました。

それで、偶然にも選ばれて実験材料を乗せてもらったんですけど、コロンビアは空中分解しちゃって結局結果は返ってこなかったんです。コロンビアには初のイスラエル人が乗っていて、その方に実験してもらえる予定だったんですけど…当時はニュースになってて、テレビ局とかも高校に取材に来てました。

あ、切り抜けられたのはどうしてかっていう話でしたね。最初に「行動力」って言いましたけど、たまたまやった実験が思いのほか楽しかったので理系に何とかしがみついていられたって感じの方が近いかもしれません(笑)


―面白いね(笑)しかし、そんな取り組みとかあったんですねー。

その時にやった実験なんですけど、使う器具とかも結構本格的で、大学の実験で使うようなものを使っていました。水も蒸留水じゃダメで、Milli-Q(ミリキュー)を使うとか。


―ミリキュー?

蒸留水よりももっと蒸留されたみたいな…それもその時初めて知ったんですけど、学校では作れないからって言って大学にわざわざ取りに行ったりしてました。この時は超純水って言ってましたね。「超!?純水!?どんだけ純水!?!?」みたいなことを言ってたような言ってないような気がします(笑)

私は頭悪かったので(笑)まとめたり計算するのは別の人がやってました。私と大野加奈さんという子の2人で一生懸命実験をするという役割分担でやってました。実験はすごい楽しかったです。


―どういうところが楽しかったんですか?

実際に手を動かすのが楽しいし、結果が出てくる過程みたいなのが面白かったです。


―それまで実験みたいなのは好きだったんですか?

生物は好きっていうくらいで、そこまで化学的な実験は好きではなかったんですけど、その時の実験で化学も楽しいなと思い始めました。

表彰もあって、五ヶ瀬からつくばのJAXAまで行きました。その時はNASDAって言ってて、対応してくれた人がJAXAに変わるからNASDAって書いてるグッズはもう無くなるからって言っていろいろくれました。「おー!」って言って(笑)

そこで、宇宙飛行士の向井さんにも会えたんです。宇宙ステーションの「きぼう」とかもまだ地上にある時で、格納庫に入っているのを間近で見せてもらいました。入る時に、給食着みたいなのを着て、エアーシャワーっていうのを浴びて見に行ったんです。

あと、選ばれた5校の中からさらに1校選ばれて、そこはNASAに行けたんです。でもさすがにそれは叶わずじまいでしたけど…でも実は、その時高校2年生で体育祭とか文化祭とかの実行委員とかもあって、いろいろ忙しくてあまり集中できなくて、最後の方はグダグダだったんですけど(笑)


―ちなみに、フォレストピア研究はどういうテーマだったんですか?

その実験でやったこととリンクしてて、たんぱく質の結晶実験みたいな感じの名前のことをやりました。もうなんか曖昧で、ちゃんと記憶してる人が聞いたら違うよって言われるかも知れませんけど(笑)



今回は以上です!

2012年7月5日木曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(3) - 高校時代(文系・理系の選択とか)

五ヶ瀬中等教育学校2004年卒業生の荒武里衣さんへのインタビューの続きです。
前回まで、専門の研究分野についての話を聞いていきましたが、
今回からなぜその進路に進んできたかを聞いていきます。

前回までの記事はこちら↓


■進路を選んだ理由

―なるほど。元々大学に入った時は何学科だったんですか?

海洋自然科学科というところに入りました。


―そこにはどうして入ったんですか?

その話だと高校時代にさかのぼるんですが(笑)

私は元々文系だったというか、全然数学とかもできないし、化学とか理科もできなかったんです。


■作文をきっかけにイルカのトレーナーに興味を持つ

―えー、でも今バリバリ理系じゃないですか(笑)

そうなんです(笑)あそこの学校って、結構早い段階で、将来何になりたいかとか作文を書かせるじゃないですか。年に1回作文を書いて、誰かが選ばれて1学年1人発表するやつです。中1の頃から書かされるので、中1なのに、もう大学を卒業して大人になったらこういうことをしたいとかこんな夢を持ってますというようなことを考えさせられました。

中1の時はそんな遠い未来のことよく分からないので適当に書いてたんですが(笑)中3になると、高校になって文系理系が分かれてくるということもあって、先生達も結構本気を出してきて本とかを読ませようとするんですね。

例えば、「弁護士になるには」とか、「○○になるには」みたいなシリーズですね。それで、どうしようって考えた時に、「イルカのトレーナーになるには」っていう本があったんですね。

イルカのトレーナーっていうのは、その時の自分の将来の職業の選択肢の中には一切入ってなかったんですが、本を見てそんな仕事あるんだと知りました。あそこは山ですが、実家は宮崎市内なので海に出たりしていたこともあって、「海の仕事いいな~」と思ったのが一番最初です。

結局、イルカのトレーナーのことをいろいろ調べました。どんな作文を書いたのか全く覚えてないんですけど(笑)


―いやー、でも今までインタビューした人は誰もその作文について言及してなかったからなー。自分も思い出さなかったし。荒武さんはきっとこの中では一番真面目に取り組んだんですよ(笑)

そんなこたーないですけど(笑)それで、海に関わる仕事を注目するようになりました。当時、なかなかテレビは見れなかったですが、どうぶつ奇想天外!とかが結構好きで、その中に必ず出てくるドキュメントを見てました。ペンギンをずっと観察してる研究者とか。レポーターがインタビューをして動物のことを教えてくれる人とかですね。

それを見て、いいなー、のんびりしてて楽しそうだなーって思って(笑)毎日フィールドに出て、動物と触れ合って、今日の体調はどうだったとか書いてるのが楽しそうに見えて、こういう系統のことをしたいなと思ってました。

でも、作文にイルカのトレーナーですって書いたら、進学校だったので、オイオイって思われるかなと思って、結局違うことを書いたんじゃないかと思います。内容は覚えてないんですけど。

それで、海洋系に進もうと思うと、文系じゃダメだと思って、泣く泣く理系に進んだんです。先生たちからも、「お前理系行くのか?」「大丈夫なのか?」って言われながら(笑)「ま、一応」って言って。


―じゃあそこで結構一大決心やったんですね。

一大決心でした。理系に行ってはみたんですが、結構辛かったです。勉強できないし、数学わからないし。うちらの学校って普通の学校と違って成績順が出ないじゃないですか。でも、仲が良いので友達と見せ合って結局順位が大体分かったりして、「やべー、また一番下だ」とかいうことがよくありました。英語とかもダメだったんですけど…


―何系か分からんね(笑)

国語と、地理と、生物がちょっとできたくらいだったんです(笑)



今回は以上です!

2012年7月2日月曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(2) - 研究分野の話の続き

五ヶ瀬中等教育学校2004年卒業生の荒武里衣さんへのインタビューの続きです。
前回は、専門の研究分野についての話を聞いていきましたが、今回もその続きです。

前回の記事はこちら↓




■海洋生物を対象とする天然物有機化学の歴史 

―そうなんですね。じゃあ海洋生物が対象になってきたのは結構後からなんですね。

海洋生物の研究の歴史があまり古くないのは、潜水技術が確立されていなかったことが理由として挙げられます。

ヘルメット潜水という、ヘルメットをかぶってホースで空気の供給をする古い潜水方法は、1900年前後には基本的なシステムが確立されているんです。


でも、ダイバーに非常に熟練されたスキルと体力が要求され、安全性も決して高いわけではなく、装備も仰々しく、気軽に生物の研究が出来るといった感じではありませんでした。

これに対して、今では一般的になっているスキューバーダイビングは1943年に新型の潜水器「アクアラング」が開発されたことが始まりです。

そして、日本にスキューバダイビングがやってきたのは第二次世界大戦の後で1954年頃。その後、1970年頃にライフジャケットのような浮力調節ができるBCという機材ができ、1980年頃に他の器材が更に発達していき、この頃にやっと一般的にスキューバダイビングが普及していきました。

ここまできて、多くの研究者がやっと安定して海洋生物を観察・採取できるようになったんです。新しい世界への可能性が増えるということは、その世界への研究もブームになるということです。

そこで、天然物有機化学の分野でももちろん注目されました。海洋生物はこれまで手を付けられていなかったので、二次代謝物を探せば新しいものばかりですからね。


―へー、思ったより最近なんですね。何十年も前からやってるのかと思ってました。

そうなんです。天然物有機化学の分野自体は結構前からあって、植物に関してはだいぶ前からやられているんです。でも、海洋生物に対しての研究は比較的最近始まっていて、1985年からですね。


―じゃあ研究分野の歴史としては結構新しいんですね。

そうですね。ただ、新しい化合物の探索の研究についてはだいぶ打ち切りになってきています。もちろんまだ新しく見つかってきてはいるんですけど、次の段階という形にはなってきています。

最初の頃、海洋生物を簡単に採取できるようになった頃は、研究者はこぞって海洋生物に含まれる二次代謝物の構造を明らかにしていきました。陸上生物とはかなり異なる環境に生息する海洋生物からは、これまで見たこともないような構造の化合物がぞくぞくと得られます。

新しい化合物の構造を発見すると報告のために論文が書けます。海洋生物はこれまで天然物有機化学で研究してきた植物に比べて、水中というフィールドも新しく、軟体動物や無脊椎動物といった生物も新しいので、やればやれほど成果が出ました。ですので、研究者はまず最初に化合物の探索と発見に力をいれました。

ですが、海洋生物からの新しい化合物の探索がブームになってすでに30年くらい経っています。潜水技術が発達したからといっても、人間が到達出来る水深は30~40mが限界です。特別な訓練、設備があれば100mくらいまで行けますが、あまり現実的ではありません。

そうなるとだんだん手近の海洋生物はほとんど研究されつくすようになりました。ただ、これは新しい化合物の探索研究ではという意味です。生物分野の研究ではまだ多くの課題があります。

そこで次の段階に移ってきているのですが、次の段階はというと、最初にちょっと触れた天然物有機化学の目的が関係してきます。目的は、役に立つ物質を見つけて、本当に役に立つか確認して、役に立つのであれば供給方法を確立することですので、発見が大体一息ついたら、次は見つけた物質が本当に役に立つかどうかの確認や、どうやって供給方法を確立していくかということが研究課題になります。

例えば、がんやC型肝炎、エイズなどの病気にどれが一番効くかっていうことを調べて、そこから類似化合物を合成して実際に薬を作りだすといったことをやります。それまでの構造の決定という単調な作業から、もっと細かな、そして幅広い研究スタイルに移っていきます。


■海洋生物の多様性

―なるほど、そういうふうに移り変わってきているんですね。

そうですね。ところで、さっきも言いましたが、生物が何でそんな毒や薬になるものを持っているのかは分かっていないんです。これは、天然物有機化合物の目的には直接的に沿わないからですし、生物学の分野では、まだこのような生態機能についての研究まで達していないからです。

少し生物の話になりますが、現在、生物の多様性という観点からみると、陸上の生物より海洋生物の方が圧倒的に多様性が高いと考えられています。でも実際には、現在知られている種は陸上生物の方が多く、その大部分が昆虫です。大体6割くらいです。

では、なんで海洋生物の多様性が高いと言われているかというと、これまでに知られていない種の推定数から導き出されています。現在まだ見つかっていない種の推定数として、陸上では4000万種の生物がいるとされています。

一方、海では100万~1億種程度の生物がいると推定されています。推定の数値に2ケタの振れ幅があるのは、正確な推定が困難であるほど研究が遅れているということです。海洋学者の中の意見は、海洋生物に関する人類の理解は大幅に遅れているという見方で一致しています。

そこで、2000年に、世界80カ国の2700人の科学者が海洋生物の個体数調査の国際共同プロジェクトネットワークである「Census of Marine Life」という海洋生物調査のプロジェクトが設立されました。

これは世界全体の海洋における環境及び生物の理解に貢献する大規模なプロジェクトです。全海洋生物の知識を高めることをねらいとしていて、これまで不確定だった海洋生物研究のベースになるカタログを初めて完成させる活動などが含まれています。

このプロジェクトは10年間で成果を発表することを目的としていました。そして、2010年10月にロンドンにて成果が報告されました。この調査の結果、海洋生物の種数の理解が約23万種から25万種に増加しました。また、正式に新種として記載されたものが1200種、また新種として記載されるであろう種が6000ほどあることが報告されました。

海洋生物に関連して有名な「オーシャンズ」という映画がありますが、実はあの映画はこのプロジェクトの一環で作られていて、社会還元の1つとして公開されたのです。

今までいろいろとお話ししてきましたが、、海洋生物の生物学的視点での研究は、まだほんの初期段階なんです。生物の種の決定もあやふやな物が沢山あります。特に天然物有機化学によく着目されるサンゴやホヤ、海綿、軟体動物、海藻などの海洋無脊椎動物では、分類すらはっきりしていないものが多数あります。


■卒業論文&修士論文での研究内容

―へーそうなんですねー。意外に分からないことだらけですね。その中で荒武さんがやってることとしては、そういった生物、例えばサンゴとかから出ているものが毒とか薬とかになるかどうかみたいな話なんですか?

元々そういうものをやってたんですが、今はそこから移りました。

卒業論文では主に海綿から新しい化合物をひたすら探してたんですが、修士論文では物質と生物の関係を調べました。具体的には、ソフトコーラルの中のウミキノコと呼ばれる種類に注目して、ウミキノコの種と化合物の種類が一致するのかどうかを調べました。

今は、生物が実際にどうやって作ってるのか、生合成経路の話を調べています。生合成経路というのは、体内で作り出される経路のことで、一次代謝物ではクエン酸回路とかが有名です。

そういったことが遺伝子にちゃんとコードされているのかというところを探しています。化学系から生物系に移った形です。



以上です!次回は高校時代の話を聞いていきます。

2012年7月1日日曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 荒武里衣さん(1) - 研究分野の話

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー、第5弾!
今回は、2004年卒業生の荒武里衣さんです。

荒武さんは大学から沖縄に来ていて
今は琉球大学の博士課程で研究を行っています。

実は、在学中も卒業後もそんなに直接話す機会はなかったんですが、
なんと、僕の奥さんと共通の友達がいるらしくて
僕の結婚式(沖縄でやりました)の二次会に来てくれたんですねー。

それをきっかけにして、この間のゴールデンウィークで
奥さんの実家に規制した時に会って話を聞きました。

研究の話がとても面白いし勉強になるのでぜひ読んでみてください!

では、以下インタビューです。
今回は、研究の内容についての話が中心です。



―これまでに民間企業で働いていたり、県庁で働いていたりする人に話を聞いたので、大学にいる荒武さんに話を聞けるとまた違った角度で話が聞けて面白いかなと思ってます。

そうですね。参考になったらいいですけど(笑)


■研究内容について


―なりますよ!荒武さんは今は大学でしたっけ?

今は大学の博士課程で3年目です。一応最後の年です。


―どういう研究をしてるんですか?

サンゴの研究です。サンゴの中でもソフトコーラルと呼ばれている仲間で、きのこみたいな形のサンゴです。そこに関連して二次代謝物っていう…


―なんかどんどん難しくなってきたんですが(笑)まずソフトコーラルっていうのは何なんですか?

やわらかいサンゴですね。


―なるほど、英語でサンゴをコーラルというので、そんままですね(笑)

そうです(笑)もう少し詳しく言うと、サンゴが体内で生産した化合物を粘液などと共に排出しているんですね。そこで排出されてくる化合物について調べています。

ここからは少し専門的な話になりますが、生物っていうのは、体の中で酵素や補酵素の作用によって物質を合成しています。要するに、体の中でいろんなものを作っているんですね。この何かを作る時の合成反応や化学反応の事を代謝とよんでいます。

そして、代謝には2種類あります。一次代謝と二次代謝です。これは何で区別するかというと、生物にとって必須のものを作るかどうかです。

一次代謝では、生物の成長、発生、生殖に必要なものを作ります。いろんな生物に共通して含まれている、糖、タンパク質、脂質、核酸(DNA)などを生成します。これに対して、二次代謝では、生物にとって必須ではないけれども、生存競争や美しさ等に関わっていたりするようなものを作ります。何の為にあるのか全くわかっていない化合物もこれに含まれます。

一次代謝でつくられる物質のことを「一次代謝物」、二次代謝でつくられる物質のことを「二次代謝物」といいます。一次代謝物は生物にとって共通の化学成分なんですが、二次代謝物はそれぞれの生物にとって固有の産物です。二次代謝物には、例えば、色素とか抗生物質とかが含まれますね。

人間は、野菜、穀物、肉などの食べ物に含まれる一次代謝物を栄養として摂取しています。逆に、必須でないもの、例えば、薬用として利用しているものは生物の二次代謝物質がほとんどです。漢方やカビに含まれるペニシリン、マラリアの薬のキニーネなんかがそうですね。

マンガのワンピースでも、似たような話がありましたね(笑)空島編のシャンディアの過去の回想で、ノーランドが作った「コニーネ」は「キニーネ」を参考にしてるようです。


―おお、ワンピース出てきた!ちょっとホッとしました(笑)でもそんなところにつながってる話があるなんて面白いですねー。荒武さんはその中のどんな分野を研究しているんですか?

最初は、化合物、さっき言っていた二次代謝物がガン細胞に効くかどうかとか製薬系の研究をしてました。天然物有機化学とという化学の分野だったんです。

生物が作りだす物質の分野って、物質がどう人に役に立つかっていうところに注目が集まるので、生物自体が何で二次代謝物を持ってるかとか、実際に生産している生物が二次代謝物を何に使ってるかとかって研究はほとんどされてないんですよ。


―え、そうなんですか?それはサンゴの?

サンゴでも海洋生物なんでもそうなんです。自分達が高校くらいの時に海洋生物からいろいろ新しい化合物を取り出すっていうのが流行ったんです。いろんな軟体動物とかサンゴとかも全部含めてたくさんとってきて、物質を抽出してどんな物質が入ってるかとか調べられました。それは全部、人間にとって役に立ちそうな物質を見つけるためです。

これが私が最初にやっていた天然物有機化学という分野です。ちなみに今やっているのは遺伝子機能解析学っていう分野ですが、これについてはまた後でお話ししますね。

天然物有機化学の目的は、人間にとって役に立ちそうな物質を見つけて、それが本当に役にたつかどうかを確認し、もし役に立つのであれば、その物質をきちんと供給していく方法を作っていくことです。


■天然物有機化学の歴史について

―両方とも舌かみそうな名前ですね(笑)その天然物有機化学っていう分野はいつくらいからあったんですか?

実は、天然物有機化学という分野自体の歴史は古くからあります。もともとは、生物のみが作れると考えられていた物質を扱う化学の分野の事を有機化学といっていました。

それが、19世紀前半に生物体内でなくても有機化合物を合成できることが分かったんです。また、天然には存在しない化合物も合成されるようになり、有機化学は炭素化合物を扱う化学の分野に拡張されました。そこで、その中の一分野として、生物が生産する物質を扱う分野を天然物有機化学と呼ぶようになりました。

有機化合物を合成できることが分かると、生物から得られる貴重な物質を人工的な合成により供給するための研究が、天然物有機化学の主なテーマとなりました。具体的には、染料や医薬、香料などですね。

その後、19世紀後半に有機化合物の構造化学が確立してくると、有機化合物の構造を決定することも天然物化学の研究として行われるようになります。ただ、昔は便利な技術や機会がが無かったので、かなり苦労して研究していたようです。

20世紀に入ると、技術がどんどん進歩して、物質の構造が簡単に分かるようになっていきます。そして、現在でも、天然物化学は新しい医薬品となる物質の候補を探したりする目的で盛んに研究されています。


―なるほど、結構歴史があるんですねー。

そうなんです。ただ、天然物有機化学という分野はとても古いので、最初の頃は、陸上に生息する植物が主な対象でした。植物から取り出した成分をもとにする香料や薬品、抗生物質が今たくさんあるのは、植物の研究が昔から盛んだったからです。

それが、化学技術が発達してくると、研究対象が様々な生物に移っていきました。陸上では植物が主体だったんですが、微生物などの小さな生き物に移りました。さらに、海洋生物も対象になってきました。


今回は以上です!