■「英語力の礎に日本語鍛錬」という記事
先日の読売新聞に面白い記事が載っていました。
「大学の実力」というコーナーで
「英語力の礎に日本語鍛錬」というタイトルの記事です。
以下、内容を紹介します。
■英語の前に日本語
「英語力の礎に日本語鍛錬」というタイトルですが
これは私も同じように感じています。
日頃から仕事で英語でやりとりをする機会がありますが
そもそも日本語で何を言いたいかを
自分の中ではっきり整理できていないと
いくら英語が話せても意味がありません。
上記の記事でも、「日本語表現」という授業で
討論やスピーチ、新聞講読、論文執筆をやると書いていますが
このねらいは、自分の頭で考え、表現することを
まずは慣れ親しんだ日本語でできるようにする
ということだと思います。
その上で、母語ではない英語でも
同じように表現できるようにするというステップなのかなと思います。
結局、日本語、英語というところに限らず、
まずは自分なりに表現するというベースができてはじめて
語学力の問題になってくるのかなと思います。
そういう意味ではとても有効な取り組みではないかなと思います。
■世界の前に日本、そして宮崎、五ヶ瀬
もう1つ面白かったのが、
「日本や世界のことを考え、知る上で、日本語は素晴らしい入口」
という言葉です。
これも同感です。
まずは自分自身のこと、自分の国のことを知ることが
世界でコミュニケーションをとっていく上で大事だと思います。
例えば、僕の場合、インドの人とコミュニケーションをとる機会が多くありますが
その中で、日本はどういう国なのか、どういう歴史、文化を持ち、
そしてそういう背景を持つ中で僕自身はどういう考えを持つ人間なのか
ということが問われてきます。
(上の記事でもそう)
そして、僕自身も相手に似たようなことを聞いたりします。
そうやってお互いのことを知ることが
コミュニケーションのプロセスの中では非常に重要になってきます。
そのために、まずは日本や日本語を
入り口として学んでおくというのは有効だと思います。
さらに言うと、世界への入り口としての日本、
世界への入り口としての宮崎、五ヶ瀬というふうに考えれば
五ヶ瀬中等教育学校で学んだこともつながってくると思います。
僕自身も在校時には、五ヶ瀬で学ぶことは、地域に特化したことで
そこでしか通用しない知識や経験のように感じるところもありました。
しかし、逆にそこでユニークなことを学んだからこそ
その後違う場所に出て行った時に
自分自身を表現しやすくなり、
相手とコミュニケーションもとりやすくなっていると思います。
ですので、地域に特化したことを学ぶことは
決してその地域で限定された意味を持つのではなく、
もっと幅広いところにつながる面があると思います。
■大学での取り組みについて
宮崎国際大学がこのような取り組みをしている
ということは知らなかったのですが、とても面白いですね。
自分は、高校の時に、高3の最初くらいまで
立命館アジア太平洋大学を第一志望にしていたんですが
そのことを思い出しました。
なぜかというと、志望していたのが
学生や教員の半数以上が海外から来た人で
面白そうだったからという理由だったからで
外国人教員が8割を占めるというところに関心を惹かれたからです。
灯台下暗しというか、恥ずかしながら知らなかったんですが
自分の地元にこういう大学もあったんだなーと
目をひらかされた感じがします。
■学長の方について
ところで、若干余談ですが
よく見たら、この隈元正行さんという学長の方は
僕の母校の五ヶ瀬中等教育学校で校長を務められていた方です。
在校の期間は僕も重なっていますし、
最近フェイスブックでもつながったところだったので
ひったまがりました(びっくりしました)
宮崎国際大学の学長になられていたことも
フェイスブックで知り、発信されている内容をみると
大学ではいろいろと面白い取り組みをされている様子が伝わってきます。
上記の取り組み含め、注目してみたいなと思います。
先日の読売新聞に面白い記事が載っていました。
「大学の実力」というコーナーで
「英語力の礎に日本語鍛錬」というタイトルの記事です。
以下、内容を紹介します。
英語力の礎に日本語鍛錬
ビジネス社会の国際化を意識してか、「大学の実力」調査で語学以外でも英語による授業を導入していると答えた大学は11%に上る
◆宮崎国際大学の場合、18年前の開学以来、必修の「日本語表現」などごく一部の授業を除き、全て英語。外国人教員が8割を占め、2年生後半には全員を海外で学ばせる徹底ぶりだが、意外にもその礎は「日本語教育にある」(隈元正行学長)という
◆「日本語表現」で、討論やスピーチ、新聞講読、論文執筆などに取り組み、聞く・話す・読む・書くの能力向上をを図る。加えて2年前には、留学先で自国の政治、経済や歴史を語る欧米の若者の輪に入れなかったという学生の嘆きを元に「日本語研究」の授業も必修化した
◆4月上旬の授業では、方言や敬語を題材に、地域と言語の関わりを討論していた。「あなたの地域で『疲れた』はどう表現する?」。担当の前田博教授の問いに、学生はそれぞれの出身地の言葉を話す。「日本や世界のことを考え、知る上で、日本語は素晴らしい入口」と前田教授
◆英語力要請に日本語の鍛錬。迂遠に見える方法がどんな花を咲かせているか。
―読売新聞 2012年5月18日 14面
■英語の前に日本語
「英語力の礎に日本語鍛錬」というタイトルですが
これは私も同じように感じています。
日頃から仕事で英語でやりとりをする機会がありますが
そもそも日本語で何を言いたいかを
自分の中ではっきり整理できていないと
いくら英語が話せても意味がありません。
上記の記事でも、「日本語表現」という授業で
討論やスピーチ、新聞講読、論文執筆をやると書いていますが
このねらいは、自分の頭で考え、表現することを
まずは慣れ親しんだ日本語でできるようにする
ということだと思います。
その上で、母語ではない英語でも
同じように表現できるようにするというステップなのかなと思います。
結局、日本語、英語というところに限らず、
まずは自分なりに表現するというベースができてはじめて
語学力の問題になってくるのかなと思います。
そういう意味ではとても有効な取り組みではないかなと思います。
■世界の前に日本、そして宮崎、五ヶ瀬
もう1つ面白かったのが、
「日本や世界のことを考え、知る上で、日本語は素晴らしい入口」
という言葉です。
これも同感です。
まずは自分自身のこと、自分の国のことを知ることが
世界でコミュニケーションをとっていく上で大事だと思います。
例えば、僕の場合、インドの人とコミュニケーションをとる機会が多くありますが
その中で、日本はどういう国なのか、どういう歴史、文化を持ち、
そしてそういう背景を持つ中で僕自身はどういう考えを持つ人間なのか
ということが問われてきます。
(上の記事でもそう)
そして、僕自身も相手に似たようなことを聞いたりします。
そうやってお互いのことを知ることが
コミュニケーションのプロセスの中では非常に重要になってきます。
そのために、まずは日本や日本語を
入り口として学んでおくというのは有効だと思います。
さらに言うと、世界への入り口としての日本、
世界への入り口としての宮崎、五ヶ瀬というふうに考えれば
五ヶ瀬中等教育学校で学んだこともつながってくると思います。
僕自身も在校時には、五ヶ瀬で学ぶことは、地域に特化したことで
そこでしか通用しない知識や経験のように感じるところもありました。
しかし、逆にそこでユニークなことを学んだからこそ
その後違う場所に出て行った時に
自分自身を表現しやすくなり、
相手とコミュニケーションもとりやすくなっていると思います。
ですので、地域に特化したことを学ぶことは
決してその地域で限定された意味を持つのではなく、
もっと幅広いところにつながる面があると思います。
■大学での取り組みについて
宮崎国際大学がこのような取り組みをしている
ということは知らなかったのですが、とても面白いですね。
自分は、高校の時に、高3の最初くらいまで
立命館アジア太平洋大学を第一志望にしていたんですが
そのことを思い出しました。
なぜかというと、志望していたのが
学生や教員の半数以上が海外から来た人で
面白そうだったからという理由だったからで
外国人教員が8割を占めるというところに関心を惹かれたからです。
灯台下暗しというか、恥ずかしながら知らなかったんですが
自分の地元にこういう大学もあったんだなーと
目をひらかされた感じがします。
■学長の方について
ところで、若干余談ですが
よく見たら、この隈元正行さんという学長の方は
僕の母校の五ヶ瀬中等教育学校で校長を務められていた方です。
在校の期間は僕も重なっていますし、
最近フェイスブックでもつながったところだったので
ひったまがりました(びっくりしました)
宮崎国際大学の学長になられていたことも
フェイスブックで知り、発信されている内容をみると
大学ではいろいろと面白い取り組みをされている様子が伝わってきます。
上記の取り組み含め、注目してみたいなと思います。
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