2012年4月30日月曜日

五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(2006年版)

五ヶ瀬中等教育学校、2003年卒業生、
田村康一郎さんのインタビューの2006年版です。

実は、僕が大学の頃にも卒業生インタビューの企画をしたことがあり、
その時にインタビューしていました。

その頃は田村さんも大学生でしたので
これまでのインタビューと比べるとまた面白いかもしれません。

2012年版のインタビューはこちら↓


  • 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(1)
  • 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(2)
  • 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(3)
  • 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(4)
  • 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(5)
  • 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田村康一郎さん(6)


  • 文系で入学したと思ったら、急に理転して工学部に進学したり、
    いつの間にかチェコに行っちょったと思ったら
    南米に飛んでみたりと色んなことをやっている頃に聞いた話です。

    インタビュー日:2006年5月5日

    それではどうぞ!


    ―所属はどういうところやとですか?

    東京大学工学部社会基盤学科国際プロジェクト研究室です。はい。


    ―長っ!そこではどんげなことを勉強しよっとですか?

    私がいるところでは途上国開発なんかを勉強しています。昔は土木工学科と言っていたところです。土木って言うとなんか印象が悪いと思うんで、例えば談合とか無秩序な開発とかそんなイメージがあるかもしれないんですけど、そんなこともあって最近名前を変えたんですよ。「社会基盤学科」に。

    社会基盤っていうと、文字通り言うと社会を支えるものってことです。かっこよく言うとインフラ(infrastructure)っていって、わかりやすいもので言うと橋とか道路とか、そういうものです。社会基盤というと、そういう形のあるものに加えて、教育とか医療サービスとか、そういう制度的なものも含むんですよ。

    私たちのところではそのような施設をどう作るかだけでなくて、それをどのように整備すれば無駄が無いかとか、計画のべんきょうもします。 とくに私は途上国での開発の方をやりたくて、勉強することも経済とか政治とか、工学部といってもいわゆる文系っぽいことをやってますね。


    ―田村君は文系やったですがね?

    はい。


    ―なぜ今の学科を選んだんすか?

    とりあず「国際」っぽいことがやりたいなと。 それで東大では2年生のときにいきたい学科を選べるんで色々考えたんですよ。それまで文系でやってきたんですけど、国際機関とかで働きたいと思ったときに、文系のところでやってる勉強とか理屈だとちょっと足りないんじゃないか、と思ったんですよね。

    で、なんだろうな都市計画/地域計画みたいなのに興味がでてきたとこで、そういう社会の設計/計画みたいなのをやる能力をつけようと思って、社会基盤に新しくできた国際プロジェクトのコースに決めた訳です。 まあほかにもいくつか下心はあったんですけど、こんなかんじでいいですかね。


    ―その下心とはいかに?

    一つは本郷キャンパスにいきたかったこと。主要なキャンパスが3つあるんですけど、よく写真に出てるやつね。 もう一つは研修プログラムでただで海外に飛ばしてもらえること(笑)。 まあ普通に講義科目とか比較してみても、そこが一番実践的な感じがしてよかったんで。


    ―それで今までどんげなことをやったとですか?

    授業では土木の基礎理論-力学とか水の流れとかめちゃくちゃ物理っぽいことから、経済学や社会調査法みたいなことまで色々やるんですけど、ばりばり数学の土木っぽい授業はとってなくて。数学苦手なんで(笑)。 そういう授業の取り方もできて、計画とかそういうことを重点的にやっていこうって感じですね。

    あとは実験でコンクリートを練ったりペットボトルロケットを飛ばしたり。そういう実験や模型作りまであって、なかなか面白かったですね。東京の町並みや河川の見学会とか、現場に出るのも好きです。 なんか幅広すぎて自分でも何やってるとこかよくわかんないですけど(笑)。

    ほかにもあって、さっき言った海外の研修にも夏いってきて、チェコって国に一ヶ月いました。


    ―チェコはどんげやったですか?ネドベドやらヤン・コラーやらには会わんかったですか?

    大学からお金を出してもらって、チェコ工科大学ってところでチェコの環境について調査してました。、、、という名目で結構遊んでたかな(笑)。あんまりいい成果は出なかったですけど。

    ヨーロッパの町並みには感動しましたね。すごくきれいでした。週末にはチェコの田舎とか周りの国に行ってみたんですけど、それぞれ町の作りや経済水準の違いとかも見えて面白かったですね。 そういうのを感じることができただけでも収穫だったかなと。また留学とかもしてみたいですよね。


    ―ネドヴェドの話はスルーかよ!ところでチェコ名物は何ですか?

    ビール! チェコのを飲んだらもう日本のビールなんて飲めないですよ、ほんと。


    ―こん飲み助が!これから先はどんげなことをすっとですか?卒業論文とかどんげなことをやるつもりやとですか?

    卒論はまだ決まって無いんですけど、途上国の都市政策みたいなことをやろうかなあと。 無事卒業できたら大学院ですね。たぶん同じ研究室で。その後はまだあんまり考えてないんですけど、海外で仕事がしたいなあと思っています。 4年生でこんな悠長なこといってっていいのかって感じですが(笑)。


    ―ふうん。じゃあ最後に皆にメッセージをどうぞ!

    チェコビールはうまいです。 日本の銘柄だとプレミアムモルツがわりといい線いってますね。


    ↑春休みに行ってきたペルーにあるインカ帝国の遺跡前でとった写真だそうです。


    以上です!

    2012年4月28日土曜日

    社会福祉の仕事は大変なだけではない?~「対人援助の技法」から~


    前回に引き続き、「対人援助の技法」という本を読んで感じたことをもう1つ。


    僕は、社会福祉の仕事に対して、
    大変そうやなー、やってる人はどういうモチベーションでやってるんやろか
    という疑問を持っていたのですが、
    この本を読んで、実はそういうことばかりじゃないんじゃないかと感じました。

    以下、この点について述べていきたいと思います。

    ■社会福祉の仕事は大変?
    社会福祉関係の仕事というと、結構大変なイメージがありました。
    パッと思いくのが支援施設とか老人ホームとかなんですが
    (そのへんも安直だと思うんですが…)
    相当熱意をもってないと務まらんやろうなーと思ってました。

    正直なかなか報われることが少ない感じがしていて
    そういう仕事を続けるには、自分の中に確固たる熱意がないt
    続かないやろうなと思っていました。

    そして、自分にはなかなかその熱意がなかったので
    社会福祉関係の仕事に就いている人が
    どういうモチベーションで働いているのか
    というところはあまりイメージできてませんでした。

    そんなわけで、前回インタビューをした
    社会福祉関係の仕事に就いている田部君のことは
    ある種尊敬の念を抱くと同時に不思議に思ってました。

    インタビューでもそれにつながるような話がありましたが、
    この本を読んでさらに答えが分かったような気がします。


    ■創造性を発揮できる豊かな仕事
    本の冒頭に次のような一節がありました。

    「対人援助の仕事では、いかに援助を進めたらよいか、あるいはどのようにクライエントに関わるのが適切であるのかを考えるとき、つねに正しい画一的な答えは存在しない。それは、1人ひとりのクライエントや家族が、あるいはそれぞれの援助者や援助職場が、こうあるべきと画一化できない複雑な事情を合わせており、そのために答えがつねに同じではないからである。」pi-ii
    「対人援助の本質が「曖昧さ」であることは、援助が「創意工夫」の許される仕事であり、そこに面白さが生まれる可能性があることも示唆している。また、援助技術の特性が「多様さ」であることは、援助が「奥の深い」あるいは「幅の広い」仕事に育つ可能性をもつことも示している。」pii

    これを読んで、なるほどな!と思いました。
    どういうことかというと、人を手助けするためには
    その人のことや周りの状況をよく知らなければなりません。

    そして、ほとんどの場合、それぞれの人が置かれている状況は異なり、
    対応の仕方も1つ1つのケースで異なってくると思います。


    ■正解がないからこそ面白い
    1つ1つのケースが異なるということは、
    唯一絶対の正解というものがないということです。


    もちろん、共通して当てはまる部分はあるでしょうが
    これをやれば絶対OKというようなものは滅多にないでしょう。

    でも、だからこそ、大変であるし、やりがいがあって面白いのだと思います。

    はっきり言って、正しい唯一の正解があった方が楽です。
    正解が分かっていればそれをやっておけば成果が上がるので分かりやすいです。

    でも、それって面白いかっていうと面白くないんじゃないでしょうか。
    分かり切っていることを繰り返すのって中々難しいと思います。
    はじめの数回は良くても、段々飽きて来るでしょう。
    (少なくとも自分はそうです)

    正解が予め分かっていてやることも決まっている仕事は
    コンピューターやロボットに任せた方がよっぽど効率的です。
    でもそうでないところにこそ人間が仕事をする意味があると思います。

    世の中正解が分かることばっかりじゃありません。
    でも、そういう問題に取り組む時にこそ
    頭を使って自分なりに考えて工夫して対応策をやっていく、
    創造性を発揮する機会が与えられているのではないかと思います。

    そして、自分なりに考えてやったことが
    良い結果に結びついた時にやりがいや面白さを
    感じられるんじゃないでしょうか。

    社会福祉の仕事は単に大変なのではなくて
    そういう機会があるからこそ
    やりがいを感じられるし面白いということなのかなと感じました。

    もちろん一口にそう言えることばかりではないとも思いますが
    見方が変わったポイントでした。

    2012年4月20日金曜日

    相手のことを考える前に自分のことを考える~「対人援助の技法」から~


    前回までの記事でインタビューをしていた
    五ヶ瀬中等教育学校卒業生で僕の同学年の田部篤太郎君から
    以下の本を紹介してもらって読んでみました。


    この本が面白かったので紹介がてら
    五ヶ瀬中等教育学校での生活でも
    関連しそうなポイントをみてみたいと思います。

    ■「対人援助」って?
    まず、「対人援助」ってあんまり聞きなれなかったんですが
    福祉の世界では一般的な用語みたいですね。

    用語の詳しい定義は良く分かりませんが、
    少なくともこの本を読んだ感じでは
    福祉の仕事をしている側の人が
    福祉のサービスを受ける側の人に対して
    支援していくことを表しているようです。

    そして、対人援助の技術とは、
    その支援の際にどういう考え方やどういう姿勢で
    取り組んでいけば良いかといった内容のようです。


    ■「対人援助の技術」とは自分に働きかける技術でもある
    最初に対人援助って聞いた時、
    人を助ける技術っていうような感じがしていました。

    ただ、読んでいくとどうもそうではない。
    っちゅうか、のっけからこういうふうに書いてありました。
    「本書でいう援助技術は、援助者が自分にどのように関心を向けるか、自分の感情をいかに吟味するか、そして自分の個性やもち味、あるいは援助に対する熱意をいかに活用するかなど、援助者が「自分に働きかける」技術である。」piii
    どういうことかというと、
    相手に働きかけることに意識を集中してしまうと
    自分がそもそもどういう意気込みや先入観をもっているかに意識がいかなくなる。

    そうすると、その意気込みや先入観にとらわれてしまって
    自分の緊張や焦り、相手に対する感情や思い込みが邪魔をして
    相手に対して働きかけるだけの余裕が減り、
    良い形で働きかけることができない。

    なので、まずは自分が相手に対してどういう構えを持っているのか、
    例えば、緊張しているなら「おれ今緊張しているな」とか
    相手が苦手だと思うなら「この人苦手だと思ってるな」とか
    そういった自分の感情や状態を把握することが大事。

    その上でそこからできるだけ自由になるように工夫して
    相手に対してフラットに接することができるようにして接すれば
    良い形で働きかけることができるという話。

    なるほどなーと思いました。


    ■「相手のために」という熱意も使いよう
    上と関連する話ですが、他の例で面白かったのは、
    相手を手助けすることに熱心になっているような場合の話。

    どういう熱意をもっているのか、どうしてその熱意をもっているのか
    といったことを検討することが大事。

    その熱意っていうのは突き詰めると
    結構利己的なところから来てたりしていて、

    • 自分が有能であると証明したいために熱心になっている
    • 相手が好みの人だから一生懸命になっている

    っていうことだったりかもするかもしれない。

    それが分かった上で、その熱意の有用性と危険性を検討して
    そのまま持っていて良い熱意かどうかを検討することが大事。

    なぜなら、自分が熱意を込めることによって、
    相手が自分で問題解決能力を発揮する機会を奪っている可能性もある。
    「相手のために」と思って熱意をもってやっていることが
    結局相手のためにならず、むしろ、相手の邪魔になってしまうことすらある。

    やはり上の話と一緒で、相手のためという視点の前に
    自分は何のためにそれをやろうとしているのか、
    そして、それが本当に相手のためになっているのかを
    検討していくことが大事ということだと思います。


    ■五ヶ瀬中等教育学校での対人援助
    最後に、この話が五ヶ瀬での学びや生活の上で
    参考になりそうな点が思い当たったので書いておきます。

    1つ直接的に思い当たるのは校外実習ですね。
    今はどうかちょっと分かりませんが
    僕の在校時は老人ホームとか養護学校とか
    社会福祉関係の施設に訪問する機会がありました。
    たぶん今も似たような活動があるんじゃないかと思います。

    そういう機会で訪問した時に
    いろいろコミュニケーションをとると思うのですが
    その時にまず自分はどういう姿勢でのぞむのかを
    考えてから行くと実りが多いのではないかなと思います。

    自分の興味がある分野なので張り切って行こう
    と思ってるかもしれませんし、
    学校行事だからイヤイヤ言っているだけかもしれません。
    どのような気持ちにしても、自分がどういう気持ちでいて
    訪問して何をしようとしているのかを把握することで
    ただ漫然と行くよりは得られるものが多いと思います。

    もう1つ考えられるのは、勉強を教え合う場面ですね。
    福祉の世界で言う「対人援助」とは外れるかもしれませんが
    相手を手助けするという点では共通かなと思います。

    僕も結構教えるのが好きで
    同級生や下級生に教えたりしていましたが、
    今思うと、役に立ちたいという思いだけでなく
    優越感とか存在意義の証明とかそういう部分が
    多かれ少なかれあったと思います。

    そういうことを踏まえて考えると
    例えば、単に答えを教えてしまうと
    自分の優越感という部分では満たされるけど
    真に相手のためになっているかというとそうではないかもしれない。

    こういう時に、自分が何で相手に勉強を教えたいと思っているのか
    その気持ちの源は何なのかを把握していれば
    より良い対応の仕方を考えられたんじゃないかなと思います。

    学校の勉強を教える機会っていうのはとんとなくなりましたが、
    ものを教えるっていうのはいろいろありますので
    このことはまた心に留めておきたいなと思います。

    2012年4月17日火曜日

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(8)

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話も今回で最後です!
    前回から大学時代の話です。今回は、大学で勉強した内容についてです。

    前回までの記事はこちら↓

    ―他に帰ってきてやりたいことは?

    もう1つやりたいのが、五ヶ瀬の部分やね。そういう意味ではドン君と一緒なんよ。せっかくこっちに帰ってきたからさ、僕がしてもらってたことを、何かしらできる形で返せないかなって。

    例えば相談にのるとかいうのでも動けたら面白いと思うんよね。それはめっちゃやりたいんよ。そういうグループなんかを作りましたっていうと面白いと思うんやけど。


    ―それは一回作ってるんやけど、止まってるんよね…学校や生徒とどうやったらつながれるかっていうのが課題やね…大体毎年1回くらいは話をしに行ってはいるんやけど、継続的に関わりを持てるような形でね。

    そうなんよね。イベントじゃなくて、ちゃんとプロセスを共有できるというか。進路相談とかできんのかな~(笑)。

    今でも進路で迷ってると思う人がいると思うんやけど、僕は社会福祉が専門やし、そういう形で、理系、文系こういうのがありますよっていうのを提示できればいいんじゃないかな。


    ―そうそう。そういうのに協力してくれる卒業生の名簿が10-20人くらい、前集まったんやけどね。こういう大学で勉強したり仕事してたりして、こういう相談なら乗れますみたいなリスト作ってこういう卒業生いるんで、進路相談とか乗れますよっていう話も持ってったことはあるんやけど、それはあんまりうまくいかず実現してないね…だから、もう1回それをやってみるっていうのもあるし。ただ、先生も忙しいからね…田部ともおいおいそのへんを相談させてもらうわ。

     最後に聞きたいのが、五ヶ瀬に入って良かったことや今に活かされていることってどんなことがある?

    6年間の自分を見る目ができたっていうのはありがたいね。客観的にこうやってさ。

    たぶん普通の学校だったらこんなに話せんかったと思うから、そういう意味では、自分がいろんな人たちに支えてもらっていうのをちゃんと自覚できたりとかは良いね。

    あとは自分の弱いところ強いところも含めて整理ができるようになったのは良かったなと。それは五ヶ瀬に行ってたおかげやろうなと。


    ―他のところじゃ難しかったやろか?

    個人的にはそう思うね。それは最近のブログのコメントにも書いたけど、見本になる人がメディアとか遠くの部分になると、僕のことを知らない人を見本にして、その人の一時の一部分を見て、こうなりたいと思うと思うの。

    でもこの人の挫折した部分とか下積みした部分とか、そういうのは言葉や文字でしか知れないのよね。というので、興味関心が遠いところに向いてたら、たぶん僕が自分の中で大切にしたいものっていうのはもっと少なくて言葉にできなかったと思う。

    逆に、6年間の同級生もそうやし、先輩とか先生もそうやけど、そういう時間の流れを通して、「この人いいなぁ」と思った時の自分であったりとか、そういう僕を10年経った今、どう捉えたのかっていうのを考えるのは、たぶんあの環境があったからできるんちゃうかなと。


    ―それは身近にロールモデルがいたってこと?

    そうそう。理想とするロールモデルがたくさんいたからさ。例えば、甲斐先輩みたいに、ああやってユニークで立派な人を見るとええなぁと思ったり、上水先輩みたいにあんだけ勉強できて頑張ってる人見ると、ああすげえなぁって思ったりとかさ。

    そうやって先輩に対しても同級生に対しても、それぞれに良いなあって思うけど、じゃあ自分はどうなんかとかを、少しずつ考えられるようになったかな。

    当時はそこがなかったんやけど、今の僕にしてみると、そうやって悩んだり、身近にそういうロールモデルがあってその後もつながってたからこそ、自分のロールモデルっていうのが、今の自分っていうかたちでできてきたんやと思う。できてきたっていうか、言えるようになったんやと思う。


    ―なるほど。逆に、こういうことをやっておけば良かったっていうのは?

    それはハメを外すことかな。あそこはあんまり外れることがないからさ。当事者の人たちもそうやけどさ、「あんたは真面目に育ってきたんやね」って言われるんよね。

    あかんことなんやけど、いろんな人生経験をしてた方が良いなっていうのがあって。そういう体験をしてないっていうのは、ある意味もったいないし、多少は知りたかったかなと思う。


    ―それは分かるなー、分かるけど、どっちかをとったらどっちかをとれないって感じやなー。

    だから五ヶ瀬でそれをとろうと思ったら、もっと地元に入っていくとかになると思う。

    五ヶ瀬中等教育学校っていうところのコミュニティじゃなくて、五ヶ瀬町っていうところにもっと落とし込めば、そこらへんの部分も、関わりを持てて知ることができたかもしらん。僕は薄かったからさ。


    ―三ヶ所とか、もっと日常的な、近い関わりを大事にしてたら違ったかもしらんよね。

    まだ学校ができて新しかったから、最初の頃は五ヶ瀬町の人たちも、五ヶ瀬中等教育学校の子どもはお客様みたいな印象がたぶんあったんだろうなーって思う。

    だから、ホームステイなんかもそうなんやろうけど。それが、自分の地域の中のひとつのもんやというところまで落とし込まれる過程が、今どうなのかっていうのは分からん。

    時間の経過の中でそれを担っていくのがしんどくなって、お客様だけ残って、地域が離れていくっていう可能性もあるし。

    逆に神楽みたいな形で溶け込んでる部分もあるやろうし。どっちなんか分からんね。僕は当時もそうやけど、今もそんなに地域に関わってないから。そこらへんはドン君のほうが分かるんとちゃうかな。


    ―同じ問題意識やね。どっちかっていうと、お客様だけになっちゃってるんじゃないかなっていう心配があるな。あとは、五ヶ瀬でやったことや学んだことが今に生きていることって何かある?

    うーん、もっと学んどきゃよかったなってことはたくさん思うけど(笑)。

    やっぱり人間関係を学んだよね。人づきあいだったりとか。つながりを大事にする部分とか、そういう思考には五ヶ瀬がすごく影響してると思う。

    たぶん僕がここで話したことは、全部が全部理論で当てはめられるかっていうとそういうわけじゃなくて、僕の個人的な考えが半分以上占めているから、その部分をこうやって話せるようになったのは、たぶん五ヶ瀬の体験がもとになっているんよね。


    ―お菓子作りとかもそういう役割と関係してたん?

    僕は元々好きやったからさ、お菓子作りとか。それで話すと面白いよね。


    ―あと、ブログのコメントで書いてた、自分で自分の道を歩きはじめる時っていうのは田部の場合はどこやったん?

    大学3-4年くらいかな。


    ―なんでそう思うの?

    ひとつは自分の就職の志望とかがある程度決まった頃だから。もう社会福祉の現場でどっぷりとやっていきたいと思ったのがひとつ。

    あともう一つは今みたいなこういう考え方ができるようになったから。


    ―ある程度客観的に自分を見れるというか?

    そうそうそう。活動とかも、前の上水先輩に手紙送ったりとか、甲斐先輩の部屋に遊びに行ったりとか、そういうような無意識の自分の興味・関心っていうのではなくて、大学の頃はいろんな勉強会つくったりとかしてたんやけど、意識して先生たちや同期にも投げかけて仲間集めて、そういう勉強会を作ったりとか活動をするようになった。

    そういう意味では、自分の資質っていうのをちゃんとつかえるようになってきた。使えるようになり始めたのがその頃やったから。そういう意味では、そこらへんかな。

    僕はまだまだできてないんやけど、社会福祉、ソーシャルワークの用語で、「自己覚知」っていうのがあってさ。要は、自分の弱みとか強みとかを含めた特性であったり、自分の思考・志向であったり、課題であったり、社会の中の自分自身を知ることが大事って言われているんよね。

    というような自己覚知が専門職には必要だっていう話になるんやけど、それに近いものがあるのかな、自分の道を歩くっていうのは。


    ―それはどういう場面で使われる用語なの?

    僕らの試験でもよく出てくるけど、対人援助職でやってると、相手の話にすごい取り込まれてしまって自分を見失ったり、逆に自分が相手を振り回してしまったりとかがざらに出てくるんよね。無意識のうちに価値観を押し付けてたり、自己決定を阻害したりとかもあるし、逆に燃え尽きであったりとか、自分を見失ってしまことにつながる。

    その時に専門職としての「自分」っていうのは何なのか、自分の肩幅で何ができるのかっていうところをきちんと捉えることが大事だと。

    相手の視点に立たんといかんっていうのが僕らの専門職の立場やから、相手の側に寄り添った時の僕っていうのがどう写っているのかっていうことと、専門職としての僕、僕から見た相手っていうのと、僕を含めた僕の社会を整理して面接、相談支援っていうのはやらんといかんっていうふうに言うんやけどね。

    そこのところをどれだけ自分の中で意識して取り込めるか。そういう意味では、僕はまだ専門職としてはまだまだ足りんけど、ある意味そういうのを意識し始めたり、考え始めたのが大学の3-4回生くらいかな。


    ―なるほど、良く分かった。それはすごい大事な話だな。普通の大人でもそれできてる人少ないでしょ。

    ソーシャルワークはどれでも良いからパッと1つ読んでみると面白いよ。社会福祉系の大学を卒業した子っていうのは、民間で言うと銀行窓口とかに採用されることもあるんだ。

    っていうのは、相手には何が必要か、何を相談に行きたいのかっていうのを対話の中でくみ取るから。上から目線であったりとか、こっちの枠組みであったりとかではなくて、相手の話をまず聞いて、何が必要かっていうのを捉えることを学んでるからね。

    ここ最近は分からんけど、前はそうやって採用が決まる人もいたよ。


    ―なるほどねー。そういうこともあるんやねー。面白いなー。
     今日は同級生と言えど当時は分からんかったことも分かったし、いろいろと勉強になりました。
     ありがとう!

    以上です!

    2012年4月16日月曜日

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(7)

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話の続きです。
    前回から大学時代の話です。今回は、大学で勉強した内容についてです。

    前回までの記事はこちら↓

    ―卒論を書いた後はどうしたの?

    卒論は一度学会で報告させてもらった。その後続きを考えないといけないけど、まだ全然できてない。


    ―卒論で研究が終わって、その後の進路、田部の生活はどうなったん?

    研究はすごく頑張ったんやけど、就職先がなくてさ(笑)。とりあえずある精神障害者地域生活支援センターに拾ってもらったけど、入った途端に施設長がいなくなったんよ。

    それで、新人二人で相談業務や施設運営をせんといかん、施設長見つけないかん、ってことになった。一緒にした人がすごくいい人だったから楽しかったけど、施設長に来てもらってから、そこでもう疲れちゃった。

    ちょうどそのときに、学生時代から関わりのあったところから誘われたのが、前の職場。


    ―それはどういうところやったん?

    それはネットでもでてくるけど「ソーシャルハウスさかい」っていうNPOで、精神障がいの支援センター、グループホーム、ヘルパーステーションをやってる。

    それに当事者活動が盛んで、学生の頃から教えてもらった当事者の人たちと一緒に活動してた。
    前が無認可のところだったから、無認可→NPO→行政職員って感じかな(笑)。


    ―そんな人なかなかおらんのやない?

    いや、福祉の分野ではNPOとか任意の団体は多いよ。


    ―それは食っていけるの?

    一人やったら食っていけるだろうけどね。


    ―そこではどういうことをやってたの?

    サロンみたいな場でプログラム活動をやったりとかミーティングしたりした。あと、利用者や近隣の人からの相談事を受けたり。例えば、「うちの息子が…」とかさ。そういう形の相談を受けて話し聞きながら一緒に考えていく役割かな。情報提供したり一緒に動いたりとか。

    あとは僕は元々大学の時からその町内に知ってる人たちがおったから、みんなで町内会の清掃作業をしに行ったりとかした。盆踊りの準備の手伝いをしたりとか地域に入っていこうとしてた。


    ―おー、じゃあ結構地域に入っていったんやね。

    うん、メンバーさんに呼びかけて「行こう!」って動いていたから、そういう意味では良かった。


    ―それは何で地域に入れたん?普通大学生とかあんまり地域に関わらなかったりするんやない?

    何でやろうね。僕が学生の時から、その周りをよく行き来してたんだ。近所のおばちゃんと世間話して仲良くなったりとか顔知ったりとかしてたから。「あ、あの子か」っていう感じで(笑)

    ヘルパーステーションのヘルパーさんの子どもを預かって、学祭に一緒に連れてったりとか。そんなことをしてたから、地域には溶け込みやすかったんやと思う。住んでるところもそこらへんやったからね。


    ―ちなみにそれって事業収入ってどうなってるの?

    行政からの委託事業や補助金だよね。


    ―その前に、研究の方に行こうとかそういうのはなかったの?研究室の先生ともつながりが強かったみたいやし。

    あったね。今でもそうだけど、学生のときは大学院に行こうと思ってた。思ってたら、僕が大学院に行っても在学中にお師匠さんが別の大学に行くっていうことが決まってたからさ。お師匠さんのところで学べんかったら、その後が迷うと思ったし。

    あとは言われたんだけど、僕のやってるボランティアとか大学での活動は、社会のごく一片だから。ご飯食べさせてもらって道楽やってるっていわれたらそれまでなんよね。

    自分の生活を自分で支えてみることが大事だなって思って、実践現場に行ってから、その振り返りのために大学院を志望しようって決めた。

    だから今もそういう実践を体験しているけど、一定期間をおいて整理がつくかなっていう時に、もう一回大学に戻ってこれをうまいこと経験として練り上げられてたらいいなっていうのはあるね。


    ―ちなみに就職しようとした時に就職先がなかったっていうのは、どういうところに行こうと思ってたん?民間企業とかも思ってたの?

    当時は社会福祉にこってりやったから、精神障がい関係の施設の相談員か公務員、病院のケースワーカーかっていう選択肢だったね。

    でも、病院の面接受けに行ったら「何で君はここにいるのか?」って言われたりとかもした。「あなたは医療関係には向いてないね」って言われたりしてさ。で、「僕もそう思います」って言いながら(笑)。案の定落ちて。

    下手に僕が頭でっかちだったのもあって、たぶん扱いづらかったんや思う。だから誘われんかった。


    ―じゃあ支援センターみたいなところに行ったのはどういう経緯で?

    研究室伝いでの紹介(笑)。前の職場だって、僕が学生の頃からボランティアで関わってたところやったから、メンバーさんも僕のことをよく知ってるし、他の支援センターで1年間実践やってきてたのもあって誘ってもらえたのかな。堺では3年間関わらせてもらった。


    ―その後は県庁に戻ったのは何でなん?結婚を機に?

    そういうわけではないんやけど。ちょうど、自分の実践に自信がもてなくなって、職場でも反発してたんだ。僕自身、もっと成長したいっていうのがあった時にビジネスとか民間のほうに目がいったんよ。

    当時は、民間も受けてたかな。保険会社とか病院の総務とか。リクナビ使って就活してた。マンツーマンでリクナビの担当者に相談して職務経歴書書いたり、面接の講習受けたりとか。

    今たぶんこうやって話ができるようになったりとか、整理がつけられるようになったのはリクナビのおかげやと思う。めっちゃエントリーシート送って、落とされまくって、良い経験したよ。

    それと、「宮崎に帰りたい」ってよく言っていたけど、挑戦したことないなって思って公務員試験を受けたら、通っちゃったんよ。で、うちの施設長と喧嘩したこともあったけど、最終的には宮崎に帰るのも仕方ないかという話になって、今でもいい関係を続けさせてもらってる。


    ―じゃあすったもんだあったけど、帰ってきて、帰ってきてからは最初に聞いたような仕事をずっとしてると。

    勉強にはなるよね。僕自身がまだ行政にどっぷり浸かれてないから。ホンマは行政職員としての役割とか視点とかってあるんやけど、それはまだ3年経っても身についてないね。そこは今から勉強せんといかんところよね。

    それとは別に、今までつかってきたものを、仕事外のところでもつなげてる。例えばさっきの上映会とか、当事者の方と一緒に当事者の講演をする時に横で一緒に話したりとか、署名活動やったりとか、そんな感じかな。今やってることがつながると、ここにいる意味が出てくるんやろうね。

    今回は以上です!

    続きはこちら↓

    2012年4月15日日曜日

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(6)

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話の続きです。
    前回から大学時代の話です。今回は、大学で勉強した内容についてです。

    前回までの記事はこちら↓

    ―ところで大学に入ってから福祉系に関心が移ってるわけでしょ。元々は国際関係とかやりたかったわけやん。それはどう転換したの?

    何やろうね。うちの大学の特徴なんやろうけど。うちの大学はしっかり勉強させてもらえたんよね。
    日本で社会福祉の理論を確立したの一人に岡村重夫っていう人がいいるんだけど、うちの大学の前身のときの先生なんよね。理論も実践もしっかりと教えてくれる大学だった。

    (※)詳細はこちら: Wikipedia 岡村重夫さんの記事


    ―大学ではどうやったん?

    理論的なこともみっちり教わったけど、それにあわせて実際に動いていくことができたのがよかった。最初は大学1年の冬にホームレス調査になぜか誘われて。ホームレス調査の調査員で回ってた。


    ―それはどんな調査なん?

    5年に1度ある国勢調査の一貫の生活実態調査。それを大阪府立大学と大阪市立大学の先生がやってて、講義の受講生や希望学生が調査員として入るの。

    一軒一軒テントを回って、路上生活している人の様子を確認したり話を聞かせてもらったりした。


    ―それは怖くなかったの?

    調査前は怖かったけど、話を意外と聞かせてくれる人達も多かったね。調査をしていく中で社会福祉に面白さを感じた。

    バブル当時の頃にめっちゃ建築とかやってた人達が今畳の上にも上がれずに、こういう状況にある。

    今の社会を築いてきた人たちがだよ。そういうことを考えることができたのがよかった。その頃も先輩達と朝方までずっと大学まで先輩たちと思想、哲学なんかの話をしたね。立岩信也とか(笑)。


    ―なんじゃそら。

    ネットで調べればたぶん出てくるよ。障害概念や自己決定について論じている。難しくて僕もきちんと理解できていないけど。。自分自身に内在する差別や偏見なんかも含めて、話をすることができた。


    ―それは高校の時に考えてたような問いの立て方と通じるね。

    うん。その通じる部分について、しっかりと勉強してる人達と話ができたのが良かった。


    ―それは行くべきところに行ったって感じやなー。

    ジョンの話も一緒なんやけど、ゼミを選択するときも、いろんな先生方の研究室をたずねて、先生の講義で考えたことやもう少し深く知りたいことを聞きに行ったよ。

    ゼミを選択するときに、時間が決められたゼミ紹介だけでは物足りなくてさ。だったら、講義終わった時とか合間に、扉を叩いて直接聞いたほうがいいやって思ったの。

    その時に今の僕のお師匠さんと先輩と出会って、そこに行こうと決めた。それが精神障害だったから、その後は精神障害者福祉の領域にのめり込んでいったんだ。


    ―そのお師匠さんのところに行こうと思ったのは何でなん?

    講義が終わった後に、僕が夕方6時くらいに先生のところノックしたら、先生がちょうどいててさ。
    マンツーマンで夜8時くらいまで話をしたんよ。そこで、大量に本と資料と知識をくれて。

    その後、先生とご飯を食べに行ったのを覚えている。先生の考えや、今勉強すべきこと、やっておくべきことなんかをずっと僕一人に話してたんよ。ちょうど、先生のゼミの先輩もすごく面白いひとでさ。この先生と先輩のところで勉強したらおもしろいなって感じたの。

    その後も他の先生方とも、勉強会作って活動はしていたけどね(笑)そういう点では、本当に自由にさせてもらったや。


    ―そこで何を研究したの?

    僕は精神障がい者の地域生活支援をテーマにしていた。障がい者の就労継続事業や相談支援センターなんかが制度としてあるんだけど、当時は作業所や授産施設って呼ばれていたんだ。

    そこに集まる当事者の人たちにとって、そういった場がどういう意味があるのかに関心を持ったの。それと当事者の人たちだけじゃなくって、職員やボランティア、地域の人たちが場を創り上げていくプロセスや、場と人との相互作用なんかに関心をもった。

    そういった活動や地域づくりとかね。有名なところでは浦河べてるの家なんかはいろいろ本とか出してる。

    (※)詳細: Wikipedia 授産所の記事


    ―それはどういうふうに意味づけられてるの?

    う~ん。実際には人それぞれで意味づけを限定できなかったけど。限定するというよりは、人の生活の中、人生の中で、場所を通じた他者との関わりが非常に重要だということ。

    また、精神障がい者にとって、多様な意味づけをしながらも、関わり続け、時間経過の中でその意味づけも変化していくことのできる場として、作業所が非常に価値のあるものであること。

    そして、その要素として人との関わり(刺激)、考える時間、それに寄り添う人、そして場所があることなんかをまとめたかな。本当はもっと勉強していかないといけないんだけど。


    ―すごいな。それはいつの時?

    大学4年の時。もともとお師匠さんから紹介された作業所に行き始めてから、ずーっと関わってたところをもとにして、インタビュー調査させてもらったんだ。


    今回は以上です!

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    2012年4月14日土曜日

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(5)

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話の続きです。
    前回までで五ヶ瀬時代の話を聞いて来ました。
    今回は五ヶ瀬を卒業した後の大学時代の話についてです。

    前回までの記事はこちら↓


    ―そんな感じで大学までなんとか行ったとして、大学入ってからはどうしたと?寮の友達とかはいなくなるやん。どういうふうに過ごしてたん?

    えっとね…みんな東京と福岡に行っちゃって関西はあんまりおらんかった。
    最初は友達といっても五ヶ瀬の友達しかおらんかったしね。上水先輩とかとは仲良くさせてもらったけど。


    ―そういえばお前卒業してから、五ヶ瀬のこと結構拒絶しとったやろ?

    うん。甘えの続きの部分だね。五ヶ瀬の人たちと連絡とる時、おらんのになんか隣におるような感じで、頼っている自分が寂しすぎるなと思ってね。

    そういったものに頼らないといけないこと自体が嫌になってた。そういう部分では、言い方は悪いけどリセットしようと。関係を一回絶ってしまおうと自分勝手に思ったんよね。

    僕は別のところで新しいつながりの中でやっていきたい、生き直しをしたいと。そういうところで一回関係を完璧に遮断したね。そん時も怒られたけど(苦笑)

    遮断しようとしても中途半端で、やっぱり会いたい人とは会ってたりしてた。それがバカやったなっていうのに気付くのにも2年ちかくかかったね。


    ―それはどうやって分かったと?

    最初、距離のとり方が最初分からんかったのが、大阪で関係が増えていく中で、ある程度距離がとれるようになったっていうのがある。

    それと、自分にとって五ヶ瀬の関係っていうのはすごい大事やったんやな、助けられてたんやなっていうのを感じて、それをバッサリ切ったっていうところでまたバカをしたなと思って。

    そこで関係をとらなくするか、謝って戻るかという選択肢で、頭下げてでも取り戻したいってほうを選択した。


    ―それはどうやって?徐々に連絡とって?

    そうね、徐々にやね。自分で関係を絶った人に連絡をするようにした。そんな感じでまた関係を作り始めたね。


    ―まあ確かにバカっちゃバカやけど、思考のロジックは通ってるよね(笑)言ってることは分からんでもないよ。

    いやいや、周りからすると振り回されてたと思うよ。今だからこうやって話せるんだろうけど。


    ―それはそうやけど、でも本人の中ではそういうロジックで1回つきつめないとっていうのはあったんやない?

    たぶんそう思う。そういう意味では、大阪でできた友達も、ものすごい良い人達やったっていうのもあった。

    どっかの歯車が狂ってたら、今頃僕は社会不適応とか精神面で病気、障害に入っていたのかもしれない。人を振り回してしまう病気とか、そういう分類かもしれんけど。

    ―まあでもそれは濃淡の問題であって、「個性」とかっていうのとあんまり変わらない領域になるよね。

    そう言われれば、そうかもしれんけどね。


    今回は以上です!

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    2012年4月10日火曜日

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(4)

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話の続きです。
    前回に引き続き、五ヶ瀬時代の話です。受験や寮生活での友達との関係についてです。

    前回までの記事はこちら↓



    ―そっから受験っていうのが一大イベントになってくるよね。そこはどういう感じやったん?

    中村先生覚えてるかな?一回国際関係の話で僕らが高校2年生の時に講演に来てくれた中村安秀先生(※)。

    JICAで勤めててインドネシアとかに行ってた人。あの人にはまったのが進路のきっかけだね。
    元々英語が好きやったっていうのと、できれば青年海外協力隊とか国際公務員とか国際関係で行きたいなという気持ちが、中村先生の話を聞いたときに出てきた。

    その後、いろいろ話を聞いて、面白いな、こういう道もあんねやと思って。そこからJICAとか国際関係の方に目がいくようになった。

    (※)プロフィールはこちら

    そう考えた時に、大学どこ行こうかっていうのは単純やった。中村先生の研究室がある阪大の人間科学っていうところが一番ええなぁ、と。あとは僕はあんまり東京に対する関心がなくて。逆にうちの父方が滋賀やったから、親戚の近くでおると楽やなと思って。関西圏域におると、なんかあった時に頼れるし、時々行ってるところやから、まだ雰囲気が分かるし。

    だから、志望校は全部関西圏にしてた。そのなかで大阪府立大学を入れててさ。一応、社会福祉系も関心があったから、社会福祉系と心理学系とあと国際関係とという形で志望は定めたの。

    センター試験の結果、その中で書いていた大阪府立大学が一番確実やから「そっちにせい」ということになった。


    ―それは何?先生から言われたの?

    先生から言われたね。


    ―言われた時はどう思ったん?

    もう喧嘩したよ(笑)。僕はセンター試験でそんなにミスをしなくて、予想以上に点数がとれてたのよ。それで、とりあえず阪大受けられるわと思った矢先に先生から言われたのが、「府大があるやないか」やったからね。

    そこで結構もめたし、当時は浪人してもいいから阪大を受けたい気持ちがあったけど、結局、いろんなところに相談して、府大を受けることにした。


    ―それは上水先輩とかと?

    そうそうそう。


    ―それはどういうふうに気持ちが変化したと?

    確かに精神的にも参ってた頃やったから、僕が一浪するのは精神的に持たんのちゃうかなという先生の気持ちとか親の気持ちとかも分かるからさ。

    そこんところで受けることを決めた。ただ、意地があるから、前期が落ちたときの後期は必ず阪大を受けようと思ってたね(笑)。


    ―結局じゃあそのまま府大に入ったの?

    そう。ただ、府大に入っても、最初は編入で阪大を目指そうかとか、大学の2年のはじめくらいまでは考えてたよ。編入試験とかもあるよなという話を聞いたりとか。

    やけどね、それもまた大学に行くとまた変わるんよ。


    ―おお、それはまたじゃあ大学編で聞くとして、高校編の最後として聞きたいのが、精神的に参ってたっていうのは何でやったんやろか?

    なんやろうね…今考えるとわからへんね。たぶん、なんやろう…、のめり込み過ぎたのかもしらん。


    ―それは勉強に?

    勉強のことについても、自分のことを考えることについても。

    例えば同室だった松葉君はよく知ってるんやけど、その頃、僕哲学にハマってたのかなんか知らんけど、松葉君に千円札を見せて「なんでこんな紙切れで生きていかないかんねん」とかいう話をしたこともあったね。

    「これはただの紙と思えばただの紙やないか」と。でもこれで人はものが買えたりほしがったりする。ゴミ箱に捨てたらどうするかとか。で実際にゴミ箱に捨ててみたりとかさ。後でとるんやけど(笑)そんな感じのことをやってたりとかしたね。

    そういうことを松葉君に問いかけたりして怒られたりとかしてさ。高校の2年とか3年で、こんだけ勉強しても何か意味があるのかとか、自分がここにいることといないことの差とかさ、そういうところで完璧にノイローゼになってたね。


    ―それは何ていうのかな?良い悩みやと思うんよね。お金に話なんかは大人になっても学者とかも一生懸命考える話やん。
    それとか自分がいる意味とか哲学的なことも皆一度は考えるような問題やと思うんよね。おれも考えたことあるし。それが、思いつめすぎて、重荷になってしまったのはどこにポイントがあったんやろか?

    悩み方を僕が間違えたんやと思う。社会と自分を考えたときに、もうちょっと客観的に見れたら良かったんやけど、自分の内面の方に向かっていったからさ。そうなると、自己否定とかマイナスの方に働いたんやね。今でこそ、こうやって客観的に言えるけど、当時は歯車が完璧に狂ってたよ。

    それを戻そう戻そうと助けてくれたのも同級生の人たちやったから、そういう意味でも本当に感謝しているし、頭が上がらんね。特に近い人達にはすごいお世話になったなあ…助けられた。話を聞いてくれたし、バカなことをしてるとバカって言われたし。


    ―そこに反発みたいな気持ちはなかったの?素直に聞けた?

    無かったね。僕からもSOS出してたし。そういう意味では、僕は一番奥の端っこの部屋で一人部屋やったけど、そうやって助けを求めたし、よう助けてもらってた。


    ―いやー、そこで思いつめすぎなくて良かったね。

    そういう意味では、さっきの話とも通じるけど、最初は先輩たちとの付き合いでおったけど、高校に上がる中でちゃんと同級生の中で支えてもらう人とか、助けを求められる人たちができたことっていうのは、とてもとても良かったと思う。


    ―いやー、しっかり寮生活を送ってるなあ(笑)人生の危機を乗り越えたっていうのが大事やね。

    今でこそ、こうやって話をできるけど、周りにしてみればいい迷惑やと思うよ。


    ―まあそうやけど、そういうもんだって。

    「そういうもんや」って周りが思ってくれるから、なおさらありがたいです。

    当時にしてみると、すごくひっちゃかめっちゃかになってた部分が、ある程度年数過ぎてきちんと振り返ったときに、つながってる感覚をもてているっていうのが良かった。

    ただ、当時は助けてもらってるけど、それでもバカなことはするし、それでも甘えてしまう部分があるし、それは正直言うと大学入ってもしばらく続いていたね。

    今回は以上です!

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    2012年4月9日月曜日

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(3)

    五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話の続きです。
    前回は五ヶ瀬に入学してから中学校くらいの話でしたが、今回はその続きです。
    特に勉強についての話が中心です。

    前回までの記事はこちら↓




    ―ところで、1期生の先輩はおれらが中3になる時に卒業していくやんね。中3から高校くらいはどうやってたの?

    1期生の先輩がおらんでも2期生の先輩がおるからさ(笑)


    ―なるほどね(笑)

    1期生の先輩や2期生の先輩は、同じか先に入っているからすごく頼らせてもらってた。逆に、僕らが中3の時に高1で入ってきた先輩たちとは一緒にいろいろできた先輩が少なかったかな。あの頃、ごちゃごちゃしたこともあったやんか。


    ―あーそうやったかねー。確かにそういうのがあったかもな…でもまあ2期生の先輩も卒業していくわけでしょ?

    そうやねー。でも、そん頃には受験勉強も忙しくなってきたし。


    ―なるほど、ブログのコメントでももらってたけど、勉強が面白くなってきたプロセスってどんな感じだったの?

    そうそう、勉強が面白くなってきたのは、できるようになったからかな。


    ―おー、それは大体いつ頃どんなふうに?

    たぶん中3と高1の間やと思う。


    ―それは徐々にって感じ?それともなんかきっかけがあった感じ?

    いや、急に上がった覚えがある。


    ―点数が?

    点数が。もともと僕は中1の頃はそんなにできんかったからね。だから、英語でしゃべるようにしたりとかボキャブラリーを覚えるようにしたりとか地道にやってきたものが、点数っていう数字に結びつくのに2年くらいかかったんやと思う。


    ―おー、それはじゃあ中1からずっとやってて、中3くらい?

    中1っていうか中2からか。中1でずっと点数悪かったから。中1はね、ホントに点数悪かったよ。中2から意識してずっとやって、中3~高1くらいからちゃんと数字に表れるようになってきた。

    逆に、高校に入ってから新しく詳しくなってきた日本史とか世界史とか地理とか、細かく分かれたりしたものは、勉強の素地がなかったから悪かった(苦笑)。


    ―面白いね。自己効力感というか、やったことが結びついているというのがモチベーションになってるんやなー。

    そうね、そうなったね。逆に理科系の生物とか化学とかはそれで上がらなかった。
    あと、僕は社会は良くなくて、その後いくら勉強してもなかなか上がらんかった。


    ―それはやる気が起きなかったの?

    うん、あまりやる気が起きなかった(苦笑)谷口先生(※)には悪いけど、授業はおもしろくても日本史そのものへの関心は低かったな。だから、覚えられなかった。

    (※)日本史の教科担任の先生。ちなみに以前の記事で書いた、面白い日本史の授業をやってくれたのもこの先生。人によって面白さが違うところもまた興味深いですね。


    ―それはなんでなん?

    なんでやろ。関心もたんと身につかんのかね…
    ドン君(※)とかはどうやったん?

    (※)インタビュアー(松本暁義)の五ヶ瀬時代のあだ名です。大きくなった今でもいまだにドン君呼ばわりです。たぶん墓場まで…


    ―うーん、たまたま田部の英語のパターンが最初からずっと続いていたのと、全教科わりと当てはまったんで、ラッキーやったんやね。

    だから結構面白かったもん。結果が出て、やったらできるみたいな感じやったから。
    そうよね、あなたは英語にしても、楽しみながら勉強してたもんね。Z会にしても。


    ―あー、でもZ会は結構辛かったんよね…今思い出したけど、モチベーション2.0と3.0の違いの話と一緒で、Z会の勉強って大学に入るためにやってたんよね。東大に入るためにというか。報酬があって、そのためにやるみたいな。だから義務感的なところでやってたんだけど。他の普通にやってた勉強は普通に面白かった。テストとかも結構楽しみにしてたし。だからラッキーだったよね。

    そっか。あと何やろうな…、勉強で面白いのって。人に教えられるようになるっていうのは良かったね。


    ―おー、それはおれもあるな。それはどのへんで教えてたんだっけ?

    数学なんかは日々課題とかあったやんか。あの時に解き方とか教えたりとか。


    ―それは違う種類のモチベーションやね。

    中学から高校になるまで、僕は自分の役割的なものというか、自分の理想とする像と実際の自分がずれてたところがあって。

    例えば、原田君(※)の部屋にみんな休みの日に集まったりとか、あんな感じで人が集まってくるのを見て、自分にはないものを「ええなぁ」とか思ったり。

    (※)同級生。なぜかいつもみんなこの人の部屋にたむろしていた。しかし、原田君はいつも寝るのが早いので、たむろしていた人も消灯時刻の1時間くらい前には追い出されていた。


    ―あー、それは分かるなー。

    グループを作る時、修学旅行とかで集まる時に、この人のところには集まるなとか。ああいうのみると羨ましいなとかはあった。そういうところで言うと、高校にあがって勉強の部分で教えたりとか、そういうところでの自分の役割(人との関わり)に、自分自身の理想像を落とし込めたから、余計に面白かったのかもしらん。


    ―あー、そうか、写真とかも結構いっぱい撮ってたやん?あれもそういうところに関係するんやろか?

    そうね。写真なんかも、別に僕は正英(※)みたいに写真自体にこだわることもなかったからね。

    (※)同級生。写真部に所属してアサヒグラフとかを読んでいた。


    ―そうそう、そこが違うやん。田部は人のために撮ってたよね。正英は自分の興味やったけど。だからそういうのが役割を見つけたいっていう今の話に通じるんやない?

    そういうところで自分の役割とかを持てたっていうのは良かったのかなって。逆に、それをみんなが認めてくれたからなんやろうけど。


    ―それすごい大事やね。五ヶ瀬で過ごす6年間がうまくいくかって結構それにかかってるよね。クラス内のポジションというか。40人しかいないし、固定やからそこで失敗してしまうと結構大変やん。うちの学年は比較的それぞれの人にうまくポジションがあったような気もするけど、そういうのが見つけられないと結構辛いかもね。

    ただ、逆にいうと6年間っていう長いスパンがあるから、役割も変わったりもするね。例えば、中1から入る時に大学受験のことなんてあんまり考えへんしさ。

    高校に上がったときに持つ役割と、中学校の頃に最初に集まった人たちで自然にできた役割付けっていうのは、変わる人は変わってることないかしら。


    ―そうやね。おーなるほど、それは面白いね。そういうふうな役割を意識するようになったっていうのはなんでやろか?元から?

    それはたぶんそれまでの環境ちゃうかな…。
    例えば、それ以前に自分の持ってる役割が、自分自身の中でうまいことしっくりきてなかったりとか。隣の芝は青いとかじゃないけど。


    今回は以上です!

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