五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー第2弾、田部篤太郎さんの話の続きです。
前回から大学時代の話です。今回は、大学で勉強した内容についてです。
前回までの記事はこちら↓
―卒論を書いた後はどうしたの?
卒論は一度学会で報告させてもらった。その後続きを考えないといけないけど、まだ全然できてない。
―卒論で研究が終わって、その後の進路、田部の生活はどうなったん?
研究はすごく頑張ったんやけど、就職先がなくてさ(笑)。とりあえずある精神障害者地域生活支援センターに拾ってもらったけど、入った途端に施設長がいなくなったんよ。
それで、新人二人で相談業務や施設運営をせんといかん、施設長見つけないかん、ってことになった。一緒にした人がすごくいい人だったから楽しかったけど、施設長に来てもらってから、そこでもう疲れちゃった。
ちょうどそのときに、学生時代から関わりのあったところから誘われたのが、前の職場。
―それはどういうところやったん?
それはネットでもでてくるけど「ソーシャルハウスさかい」っていうNPOで、精神障がいの支援センター、グループホーム、ヘルパーステーションをやってる。
それに当事者活動が盛んで、学生の頃から教えてもらった当事者の人たちと一緒に活動してた。
前が無認可のところだったから、無認可→NPO→行政職員って感じかな(笑)。
―そんな人なかなかおらんのやない?
いや、福祉の分野ではNPOとか任意の団体は多いよ。
―それは食っていけるの?
一人やったら食っていけるだろうけどね。
―そこではどういうことをやってたの?
サロンみたいな場でプログラム活動をやったりとかミーティングしたりした。あと、利用者や近隣の人からの相談事を受けたり。例えば、「うちの息子が…」とかさ。そういう形の相談を受けて話し聞きながら一緒に考えていく役割かな。情報提供したり一緒に動いたりとか。
あとは僕は元々大学の時からその町内に知ってる人たちがおったから、みんなで町内会の清掃作業をしに行ったりとかした。盆踊りの準備の手伝いをしたりとか地域に入っていこうとしてた。
―おー、じゃあ結構地域に入っていったんやね。
うん、メンバーさんに呼びかけて「行こう!」って動いていたから、そういう意味では良かった。
―それは何で地域に入れたん?普通大学生とかあんまり地域に関わらなかったりするんやない?
何でやろうね。僕が学生の時から、その周りをよく行き来してたんだ。近所のおばちゃんと世間話して仲良くなったりとか顔知ったりとかしてたから。「あ、あの子か」っていう感じで(笑)
ヘルパーステーションのヘルパーさんの子どもを預かって、学祭に一緒に連れてったりとか。そんなことをしてたから、地域には溶け込みやすかったんやと思う。住んでるところもそこらへんやったからね。
―ちなみにそれって事業収入ってどうなってるの?
行政からの委託事業や補助金だよね。
―その前に、研究の方に行こうとかそういうのはなかったの?研究室の先生ともつながりが強かったみたいやし。
あったね。今でもそうだけど、学生のときは大学院に行こうと思ってた。思ってたら、僕が大学院に行っても在学中にお師匠さんが別の大学に行くっていうことが決まってたからさ。お師匠さんのところで学べんかったら、その後が迷うと思ったし。
あとは言われたんだけど、僕のやってるボランティアとか大学での活動は、社会のごく一片だから。ご飯食べさせてもらって道楽やってるっていわれたらそれまでなんよね。
自分の生活を自分で支えてみることが大事だなって思って、実践現場に行ってから、その振り返りのために大学院を志望しようって決めた。
だから今もそういう実践を体験しているけど、一定期間をおいて整理がつくかなっていう時に、もう一回大学に戻ってこれをうまいこと経験として練り上げられてたらいいなっていうのはあるね。
―ちなみに就職しようとした時に就職先がなかったっていうのは、どういうところに行こうと思ってたん?民間企業とかも思ってたの?
当時は社会福祉にこってりやったから、精神障がい関係の施設の相談員か公務員、病院のケースワーカーかっていう選択肢だったね。
でも、病院の面接受けに行ったら「何で君はここにいるのか?」って言われたりとかもした。「あなたは医療関係には向いてないね」って言われたりしてさ。で、「僕もそう思います」って言いながら(笑)。案の定落ちて。
下手に僕が頭でっかちだったのもあって、たぶん扱いづらかったんや思う。だから誘われんかった。
―じゃあ支援センターみたいなところに行ったのはどういう経緯で?
研究室伝いでの紹介(笑)。前の職場だって、僕が学生の頃からボランティアで関わってたところやったから、メンバーさんも僕のことをよく知ってるし、他の支援センターで1年間実践やってきてたのもあって誘ってもらえたのかな。堺では3年間関わらせてもらった。
―その後は県庁に戻ったのは何でなん?結婚を機に?
そういうわけではないんやけど。ちょうど、自分の実践に自信がもてなくなって、職場でも反発してたんだ。僕自身、もっと成長したいっていうのがあった時にビジネスとか民間のほうに目がいったんよ。
当時は、民間も受けてたかな。保険会社とか病院の総務とか。リクナビ使って就活してた。マンツーマンでリクナビの担当者に相談して職務経歴書書いたり、面接の講習受けたりとか。
今たぶんこうやって話ができるようになったりとか、整理がつけられるようになったのはリクナビのおかげやと思う。めっちゃエントリーシート送って、落とされまくって、良い経験したよ。
それと、「宮崎に帰りたい」ってよく言っていたけど、挑戦したことないなって思って公務員試験を受けたら、通っちゃったんよ。で、うちの施設長と喧嘩したこともあったけど、最終的には宮崎に帰るのも仕方ないかという話になって、今でもいい関係を続けさせてもらってる。
―じゃあすったもんだあったけど、帰ってきて、帰ってきてからは最初に聞いたような仕事をずっとしてると。
勉強にはなるよね。僕自身がまだ行政にどっぷり浸かれてないから。ホンマは行政職員としての役割とか視点とかってあるんやけど、それはまだ3年経っても身についてないね。そこは今から勉強せんといかんところよね。
それとは別に、今までつかってきたものを、仕事外のところでもつなげてる。例えばさっきの上映会とか、当事者の方と一緒に当事者の講演をする時に横で一緒に話したりとか、署名活動やったりとか、そんな感じかな。今やってることがつながると、ここにいる意味が出てくるんやろうね。
今回は以上です!
続きはこちら↓
前回から大学時代の話です。今回は、大学で勉強した内容についてです。
前回までの記事はこちら↓
- 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(1)
- 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(2)
- 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(3)
- 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(4)
- 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(5)
- 五ヶ瀬中等教育学校卒業生インタビュー - 田部篤太郎さん(6)
―卒論を書いた後はどうしたの?
卒論は一度学会で報告させてもらった。その後続きを考えないといけないけど、まだ全然できてない。
―卒論で研究が終わって、その後の進路、田部の生活はどうなったん?
研究はすごく頑張ったんやけど、就職先がなくてさ(笑)。とりあえずある精神障害者地域生活支援センターに拾ってもらったけど、入った途端に施設長がいなくなったんよ。
それで、新人二人で相談業務や施設運営をせんといかん、施設長見つけないかん、ってことになった。一緒にした人がすごくいい人だったから楽しかったけど、施設長に来てもらってから、そこでもう疲れちゃった。
ちょうどそのときに、学生時代から関わりのあったところから誘われたのが、前の職場。
―それはどういうところやったん?
それはネットでもでてくるけど「ソーシャルハウスさかい」っていうNPOで、精神障がいの支援センター、グループホーム、ヘルパーステーションをやってる。
それに当事者活動が盛んで、学生の頃から教えてもらった当事者の人たちと一緒に活動してた。
前が無認可のところだったから、無認可→NPO→行政職員って感じかな(笑)。
―そんな人なかなかおらんのやない?
いや、福祉の分野ではNPOとか任意の団体は多いよ。
―それは食っていけるの?
一人やったら食っていけるだろうけどね。
―そこではどういうことをやってたの?
サロンみたいな場でプログラム活動をやったりとかミーティングしたりした。あと、利用者や近隣の人からの相談事を受けたり。例えば、「うちの息子が…」とかさ。そういう形の相談を受けて話し聞きながら一緒に考えていく役割かな。情報提供したり一緒に動いたりとか。
あとは僕は元々大学の時からその町内に知ってる人たちがおったから、みんなで町内会の清掃作業をしに行ったりとかした。盆踊りの準備の手伝いをしたりとか地域に入っていこうとしてた。
―おー、じゃあ結構地域に入っていったんやね。
うん、メンバーさんに呼びかけて「行こう!」って動いていたから、そういう意味では良かった。
―それは何で地域に入れたん?普通大学生とかあんまり地域に関わらなかったりするんやない?
何でやろうね。僕が学生の時から、その周りをよく行き来してたんだ。近所のおばちゃんと世間話して仲良くなったりとか顔知ったりとかしてたから。「あ、あの子か」っていう感じで(笑)
ヘルパーステーションのヘルパーさんの子どもを預かって、学祭に一緒に連れてったりとか。そんなことをしてたから、地域には溶け込みやすかったんやと思う。住んでるところもそこらへんやったからね。
―ちなみにそれって事業収入ってどうなってるの?
行政からの委託事業や補助金だよね。
―その前に、研究の方に行こうとかそういうのはなかったの?研究室の先生ともつながりが強かったみたいやし。
あったね。今でもそうだけど、学生のときは大学院に行こうと思ってた。思ってたら、僕が大学院に行っても在学中にお師匠さんが別の大学に行くっていうことが決まってたからさ。お師匠さんのところで学べんかったら、その後が迷うと思ったし。
あとは言われたんだけど、僕のやってるボランティアとか大学での活動は、社会のごく一片だから。ご飯食べさせてもらって道楽やってるっていわれたらそれまでなんよね。
自分の生活を自分で支えてみることが大事だなって思って、実践現場に行ってから、その振り返りのために大学院を志望しようって決めた。
だから今もそういう実践を体験しているけど、一定期間をおいて整理がつくかなっていう時に、もう一回大学に戻ってこれをうまいこと経験として練り上げられてたらいいなっていうのはあるね。
―ちなみに就職しようとした時に就職先がなかったっていうのは、どういうところに行こうと思ってたん?民間企業とかも思ってたの?
当時は社会福祉にこってりやったから、精神障がい関係の施設の相談員か公務員、病院のケースワーカーかっていう選択肢だったね。
でも、病院の面接受けに行ったら「何で君はここにいるのか?」って言われたりとかもした。「あなたは医療関係には向いてないね」って言われたりしてさ。で、「僕もそう思います」って言いながら(笑)。案の定落ちて。
下手に僕が頭でっかちだったのもあって、たぶん扱いづらかったんや思う。だから誘われんかった。
―じゃあ支援センターみたいなところに行ったのはどういう経緯で?
研究室伝いでの紹介(笑)。前の職場だって、僕が学生の頃からボランティアで関わってたところやったから、メンバーさんも僕のことをよく知ってるし、他の支援センターで1年間実践やってきてたのもあって誘ってもらえたのかな。堺では3年間関わらせてもらった。
―その後は県庁に戻ったのは何でなん?結婚を機に?
そういうわけではないんやけど。ちょうど、自分の実践に自信がもてなくなって、職場でも反発してたんだ。僕自身、もっと成長したいっていうのがあった時にビジネスとか民間のほうに目がいったんよ。
当時は、民間も受けてたかな。保険会社とか病院の総務とか。リクナビ使って就活してた。マンツーマンでリクナビの担当者に相談して職務経歴書書いたり、面接の講習受けたりとか。
今たぶんこうやって話ができるようになったりとか、整理がつけられるようになったのはリクナビのおかげやと思う。めっちゃエントリーシート送って、落とされまくって、良い経験したよ。
それと、「宮崎に帰りたい」ってよく言っていたけど、挑戦したことないなって思って公務員試験を受けたら、通っちゃったんよ。で、うちの施設長と喧嘩したこともあったけど、最終的には宮崎に帰るのも仕方ないかという話になって、今でもいい関係を続けさせてもらってる。
―じゃあすったもんだあったけど、帰ってきて、帰ってきてからは最初に聞いたような仕事をずっとしてると。
勉強にはなるよね。僕自身がまだ行政にどっぷり浸かれてないから。ホンマは行政職員としての役割とか視点とかってあるんやけど、それはまだ3年経っても身についてないね。そこは今から勉強せんといかんところよね。
それとは別に、今までつかってきたものを、仕事外のところでもつなげてる。例えばさっきの上映会とか、当事者の方と一緒に当事者の講演をする時に横で一緒に話したりとか、署名活動やったりとか、そんな感じかな。今やってることがつながると、ここにいる意味が出てくるんやろうね。
今回は以上です!
続きはこちら↓
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